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2015年3月18日水曜日

「自分が正しい」と思うことについて Part 2

自分が変な新興宗教みたいな考えに向かわなかったのは、アドラー心理学のおかげです。正確には岸見先生と古賀さんのおかげです。「嫌われる勇気」を読んでいなかったら、読んでいたとしてもアドラーの考えに賛同できていなかったら、「着想」を達成していたとしても、決して豊か人生ではなかったと思います。

「嫌われる勇気」の中で、このような一節があります。
ありのままのわが子を誰とも比べることなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはずです。
つまり、「ここに存在しているだけで、価値がある」ということです。「人類皆平等」とはちょっと違う意味なんだと思いますが、内閣総理大臣と生活保護を受ける人との間に、人としての大きな価値の差はないんじゃないか、という考え方です。もちろん、大きな影響力を持っている内閣総理大臣は「政治」というその中で重要な役割を果たしているんだと思います。しかし、内閣総理大臣という「役割」自体はその人以外も遂行可能なものです。 むしろ、他の人もできなければ成り立たない制度ですよね。でも、その内閣総理大臣をしていた「人物」に変わりはいない。家族がいたかもしれないし、家族よりも大切な友人がいたかもしれないし、飼い犬に最も頼りにされていたかもしれないし、その人のブログが誰かに頼りにされていたかもしれない。

考えてみると、至極真っ当なお話。社会的な「役割」が違うだけであって、皆同じ人間。つまり、学生だろうが教員だろうが、目標さえ共通の認識が持てていれば、学生が教員に新しいことを教えたっていい。ちょっと論理の飛躍かもしれませんが...。学生も教員も「学ぶ」という意味においては「仲間」です。ただ、ベースとなっている知識が違うだけ。教員だから「正しい」知識を持っているわけではない。大学での講義は、あくまでその教員がもつ主観的な理解において導き出した知見を学生が聞いた、というだけのこと。そこからどのような理解なり発展をさせるかは個々に委ねられていると思います。だから大学は面白い!と私は思っていました。

そうなんです。「正しい」っていう言葉に意味なんかないんじゃないか、というのが私の意見です。私の少ない経験上のことですが、社会的地位の高い人の多くは、「自分は正しいことをしている」という感覚が強いです。それだけ自分の考えや行動に有益さを感じている証拠なので、それ自体は問題ではないのですが、その「正しさ」をその他大勢にも求めようとしたその瞬間から、その「正しい」はまったく有益な意味を持たなくなります。アドラー心理学的には、他者の課題に土足で踏み入っていることになるからとなると思います。また、私は自分の視界の狭窄につながる、と思っています。自分が正しいと思って相手を論破しようとしているときは、すでに相手の立場に立とうとする意識がなくなっているからです。なので、物事もしくは論理を推敲できなくなっています。

今回私が最終的に言いたかったことは、「自分が正しいと思う必要なんてない。ワクワクすることはなんだろうって考えることが人生を豊かにする」です。

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