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2015年7月27日月曜日

ケトプロ食を実践予定

こんなHPを見つけました。
http://www.kaiten.jp/syokuji/butter.html
食事に対する考え方は、アミーチョサロンと似ています。こちらはもっとバターに注目している感じですね。

どうやら、ケトプロ食では断食を定期的に継続することをそれほど推奨していないのようですが、ケトン体体質にするための一つの手法としてはまったく反対しているわけではなかったようです。たぶん...。

今回のプチ糖質制限断食で糖質中毒からまた少し離脱に向かえると考えると、今週からまた糖質制限&高飽和脂肪酸食を実践してみたいなと思います。個人的には、お酒飲んだときに〆る気持ちを抑えられれば、お酒を続けつつ、糖質制限も実践できるのになと思う今日この頃ですが...。

2015年7月25日土曜日

プチ糖質制限断食のおかげで糖質中毒からの離脱?

どうしても、週末の空腹感は発生しておりましたが、プチ糖質制限断食をした結果、ケトン体をうまく使えているのか、苦しくなく過ごせました。昨日(今日)は0時〜朝4時まで飲んでいましたが、断続的な4時間ほどの睡眠でも昼以降にそれほど眠気を感じずに過ごせました。アルコールはビール2杯とハイボール1杯と焼酎1杯と日本酒1合で、飲んでた際のツマミは、パスタなど少量食べましたが、低糖質だった記憶です。量もそれほど食べていないのですが、空腹感など感じずに過ごせました。あと、いつもなら〆を食べたくなるのですが、食べずに就寝できました。正直言えば、ちょっとコンビニに寄りたい衝動にかられましたが、それほど気持ちが傾かなった、という感じです。

1日1食を継続していたことで、空腹感にも慣れ、ケトン体に切り替わりやすい身体になっていたのではと思います。その上で、断食するつもりで、つまりは満腹感と満足感を食事に求めないという気持ちで食事に臨む(笑)ことで、苦なく取り組めたのではないかと思いました。昼前にはバター卵スープをいただきました。

2015年7月24日金曜日

断食するつもりで1日1食糖質制限

断食の効果を検討中です。今まで、糖質制限食は継続できていませんでしたが、1日1食は非常に快適だったので、続けていました。というか、自然に食べなくなっていました。週末とかは食べてしまいますが。それでも昼食の時間に少量食べる程度です。で、私の身体は1日1食に適応した身体にはなったのだと思いましたが、おそらく、ケトン体を有効に使える身体にはまだなっていないのではと思い始めました。そこで、断食するつもりで糖質制限食をしてみようと思い立ちました。今までは、夕食への満腹感と満足感を求めていましたが、その気持ちを捨て、断食しようと思いましたが、好転反応も危険な場合があるので、少食にしてかつ糖質制限食にすることにしました。お腹いっぱい食べるわけではないけど、断食するつもりで一昨日と昨日の2日間の夕食を糖質制限にしてみました。
結果は、左のグラフの通りです。体重はあまり落ちず、体脂肪は多少落ちた印象です。断食するつもりで臨んでるので、血糖値上昇による満足感を得られずとも、それほど苦ではありませんでした。また、今までは、1日1食だし、しっかりたくさん食べなきゃ、みたいな気持ちがあったのですが、それもなくしていたので、糖質制限された食事が多少少量でも気にせずに食べることで、それほど危機感のようなものもなく過ごせました。
週末なので、今日は普通食に戻してお酒も飲んでしまいそうですが、平日にまた再開できたらなと思います。

2015年7月23日木曜日

アドラー心理学を大学での看護教育に生かすのは困難...

まだまだ不勉強ですが、アドラー心理学を基本とした学生への関わりを大切にしてはいますが、今疑問に感じていることがあります。

「間違い」を指摘するにはどうしたらよいか、です。

教員側として学生に「こうなって欲しい」といったことはたくさんあります。しかし、それが勇気をくじくことにつながらないのか、という側面に注意する必要はあると思われます。だからといって、何も言わないでいると、私のように冷たい言葉をもらうことにもなります。別に、普通に普通に言えばいいのかな?こうした方が良かったんじゃないか?というような言い方で。

常に自分がどうするか、が求められるのがアドラー心理学ですよね。やはり厳しい心理学です。ただ、課題の分離ができれば、学生がどういう学びをするかは学生次第、というように考えてもいいのかもしれません。今の大学教育はしっかり看護師免許をとらせることが求められているので、そういった意味では教育制度自体が課題の分離をできていないのかもしれません。

2015年7月19日日曜日

辛い現実

辛いことがあると、環境を変えてみたくなります。
きのくに子どもの村学園http://www.kinokuni.ac.jp/nc/html/htdocs/index.php
を見つけました。サドベリースクールと概念が似ているのかなと思いました。「常識」では、社会に馴染むことが求められますが、そもそもその社会に疑問を持つことがあれば、無理に従う必要はないのでしょうね。

みんなが協力して生活し、かつ多様性を認められる社会は不要なのでしょうか。正義と悪、はそんな簡単に線引きできるものなのでしょうか。改めて、人としての価値を考えたくなります。継続することは辛いこともありますが、楽な側面もあります。今の社会的責任から逃げる、という側面もありますが、社会的地位を捨てるという側面もあります。自分が今何をしたいのか、誰のために何ができるのかを考えることが大切かも。

タイトルで「まだ競争で消耗してるの?」としていますが、私も十分競争で消耗していますね。みっつさんの言う通りです。普通であることを捨てられないんですね。ただ、私はそれを捨てたときにどうするかを少し考えています。これだけで0.001歩くらいにはなっているかと思います。

今年、自分にとって挑戦の年にしたい、と漠然と思っていました。ある意味、挑戦はできていると思います。アドラーの考えを基礎とした、人との関わりを日々考えることができています。これは本当に楽しいことです。不安になることもありますが、トライできているなと思います。難しいのは、自分とは違う考えを持った人にたいして否定的な感情を持たずに、多様性を受け入れてコミュニケーションをとることができていない点が気になります。「自分が正しい」と思いたいのかもしれません。私にはまだ、「自分の芯」のようなものがないから、「正義」にすがりつきたいだけなのかもしれません。芯がなくてふにゃふにゃなのも、いろんなものを包み込めていいかもしれませんが。


2015年7月18日土曜日

悔しい想い

確かにこちらにも非があったのは重々感じていますが、こちらを屈服させるような話し合いに何か有益なものは生まれるんでしょうか?こちらの言い分を理解しようとしない姿勢は、建設的なんでしょうか。こちらを反省させることがあなたの目的なんでしょうか。私が反省すればあなたは満足なんでしょうか。同じことが二度起こらないようにするための対策はそのような議論で導き出されにくいのではないでしょうか。こちらはただただあなたへの否定的な気持ちしか生まれないです。

でも、こんな感情が生まれるのも私が未熟なのでしょうね。あなたがどんな態度を取ろうと、私は自分の人生の課題へ取り組むべきだったところを、自分の意見を言わずに逃げ出してしまったのですから。全ては自己責任。厳しい心理学だぜ、アドラー先生。

2015年7月15日水曜日

1日1食は継続しているが、肉卵チーズ食を継続するためには「食事への満足感」からの脱却が必要かも

1日1食はホント楽です。約24時間に1度しか食べなくても、身体に異変が起きませんので、食べた後の倦怠感などがなくて、楽です。ただ、休日は心身がリラックスしてしまうせいか、つまみぐい的に食べたり、お酒も飲んでしまうために食事量は増えてしまいます。食べた後にだるくなれば昼寝をすればいい、という気持ちあるため、食べる気持ちに拍車がかかります。やはり食事って暇つぶしなんだなって思います。

1日1食による体重の変動は落ち着きました。体重や体脂肪率は糖質摂取量およびアルコール摂取量に依存して増加する印象を受けます。あと、食べる時間が21時以降でも増加する気がします。糖質摂取量に依存して、体脂肪率も簡単に上昇します。やはり、主食として糖質を摂ることは身体のを酸化させ、良好な代謝を阻害する気がします。食べた直後は満足感(満腹感ではなく)で満たされるのですが、身体は喜んでいない感覚があります。こういった感覚は、プラシーボ効果的な感じで、自分の心持ち次第な気もしますが。

なので、肉卵チーズ食は継続できていません。ただ、卵をしっかり3個以上食べて糖質を控えめにすると体調が良い気がします。あと、チーズを食べ、肉を200〜300グラム食べて、卵を食べると、もう満腹感のようなものは得られますが、満足感が足りずに糖質に走る傾向があります。この糖質への中毒症状のようなものから離脱できれば良いのではないかと思います。自分の胃腸が満足する量の肉などが食べられれば、十分なように心身を慣れさせれればいいのではないかと感じています。1日1食にしたことで、ある程度好きなものを食べても体重が大きく増えていかないので、安心して食べてしまっているのもありますし、以前にこのまま体重が落ちすぎてしまう感覚があったので、少し好きなように食べていましたが、あまり積極的に食べなくても、身体(というか心?)はそれに順応してくれるのかも、と思いました。

食事による満腹感や満足感への「執着」を捨てることができれば、体脂肪率1桁もありうるかもしれませんが...。見た目が虚弱になりそうな場合は都度調整が必要そうです。

2015年7月14日火曜日

「やる気が出ない」ときは、「取り組まないための原因」に着目している

一般的に浸透しているのは、今の私が「仕事が忙しくて心身とも疲れてるから少し休もう(と思ってもいいだろう)」といったことを「原因」として取り上げ、「人生の課題」へ取り組むことに消極的になっている状態を「やる気が出ない」としているだろう。

しかし、上記の「原因」は本当の「原因」ではなく「影響要因」の一つであるはず。その「影響要因」によって私の「目的」は「仕事に対して消極的になる」ことになった、ということである。あくまで、自分はそれを「選択」したということである。これは自分にとってかなり厳しい側面を持っていると思う。なぜなら、ほとんどの場面が自己責任となるからである。

例えば、子どもを保育園へ連れて行くときに、スムーズにいかずイライラしている自分がいるのだが、そもそも、子どもが積極的に朝自分で行く準備をして、トイレに行って、御飯を食べて...というのは、親側の「理想」を押し付けている状態。それを「原因」にして「イライラする」という選択を私がとっている。他の選択肢を知らないがために「イライラする」選択肢を選んでいる。

というのが、私の今の「目的論」の理解である。これを考えていて思うのは、かなり「自己責任」の占める割合がほとんどであると感じられるため、結構窮屈な気持になる。それこそ「自己受容」できていて自分に自信がある心理状態じゃないと、ついていけなくなりそう。

それでも、自分という存在そのもの価値を感じられ、0.01歩でも前に進むために取り組められていることに「貢献感」を感じることができれば、「自分自身を勇気づける」ことが可能なのかもしれない。いや、岸見先生としては「絶対に可能」ということなのだろう。

2015年7月13日月曜日

岸見アドラー心理学は、人を操作するための科学ではない

基本的に、人を操作するものであってはならないのです。岸見先生の本をまた買いました。


嫌われる勇気より、少し具体的に書かれている印象です。この本を少し読んで改めて思ったのは、人を操作するための手法であるべきではない、という点です。あくまで、自分が対人関係から自由になるための手法であるべきだということだと思いました。

子どもと日々生活を共にしていると、生活する上で必要な食事、排泄、清潔に関わる行動を促すのに苦労します。嫌われる勇気を読んで1年くらいが経過しますが、もうすぐ3歳になる息子と、どうしたら対等な関係になれるか...を目標にしていたつもりでしたが、いつの間にか私は、息子をいかに自分の思い通りに動かせるかを考えてしまっていました。できるだけぐずらずに目的の行動に促す、それがうまくいけば「ありがとう」と言っていました。それでは「褒める」と一緒だということに気づいた気がしました。「褒める」とは「自己中心的な行動そのもの」だと思いました。まずは子どもが存在していることそのものに注目し、感謝したい。その上で子どもの選択を見守れる「技術」を私が身につければ良いわけです。その「技術」の選択肢が私は少なすぎるんだと思いました。3歳といえど、「理屈」があった上で自分がこうしたいという表現をしていると思います。その「理屈」を信頼し、見守りたいです。

病棟実習で学生と関わるときも同様です。学生は今までの生きてきた積み重ねを駆使して、常に自分で「選択」して行動しています。それを信頼したいです。私自身、実習病棟で指導を担当いただく看護師に対してのアピールとして学生をきちんと指導しているように見せる「自己中心的な行動」はとりたくないです。患者の生命に関わったり、病棟の業務に支障をきたさないレベルでの線引きは難しいと感じていますが、学生には指導担当看護師や教員に「ウケがいい行動」を促すのではなく、「論理的・科学的・合理的」に考えた上での選択ができるような関わりが、教員に求められているんだと思います。「論理的・科学的・合理的」を「賞罰」を介して伝える必要な皆無です。むしろ、「賞罰」が最も思考を遮断しています。

偉そうに書きましたが、今思うところを整理してみました。

2015年7月8日水曜日

アドラー心理学と看護臨地実習

実習では、というか看護師の仕事というのは、常に減点法なのではということを痛感します。特に実習では、できないことをツッコまれまくりで、自信が持てなくなる学生も少なくありません。「自己受容」がしっかりできていないと、学習に取り組む以前の問題になると思います。「自己受容」、似たような言い方であれば「絶対的自己肯定感」ですね。まずは「自分が存在していることの価値」をしっかり持っていないと、困難な課題に取り組むのにはかなりしんどい思いをすると思います。ぜひ、自信をもってください。...と自分にも言い聞かせる。

2015年7月2日木曜日

「嫌われる勇気」を実践することの苦悩

「嫌われる勇気」では下記のように述べられている。
自らの生について、あなたにできるのは自分の信じる最善の道を選ぶこと

これって、かなりの苦痛を伴うものです。「自分の責任」という言葉が重くのしかかる。「深刻」になってしまうのではないでしょうか。一方で、自分の価値はまず存在していることそれ自体にあるべきという考え方も述べられている。

何をもって「最善」と考えるべきなのか。それが一番問題のかもしれません。「善悪」で捉える必要がないとすれば、では「最善」とは「バランス」でしょうか?

仕事が自分のキャパシティーを超えていたときには、どのように捉えることが「正解」なのでしょうか。「正解」を探そうとすることがすでに「競争」に足を踏み入れていることになるのかもしれません。

競争で消耗しているのは、私自身なのかもしれません。

まずは一歩を踏み出すことでしょうかね。