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2015年6月25日木曜日

成長ではなく「表現」を大切にすることは、看護師養成課程にとっても重要だ

久々にイケハヤさん哲学が聞けてよかったです。
「成長する」のではなく、「表現する」を大切にしよう

看護学部だけではないでしょうか、看護師は「成長」を求められます。もう少し正確に表現するならば、「病院のルールを正確に実行していくれる人材となることが成長」ではないでしょうか。少し嫌味がこもっているかもしれませんが。

しかし、病院のルールとは逸脱した、もしくは看護学部&実習生としてのあるべき「理想像」から逸脱した考えを「表現」しようとすることは「成長」とみなされません。

私も、この少ないアクセス数のブログで「表現」できていることは、かなり「自分の人生を生きている感じ」に寄与している気がします。

今の看護学部の教育は「専門職大学」であり、学生にはこちらの価値観を押し付けてしまいます。「正しい(と思われること)の押し売り」です。その価値観の押し付けを日々行われた結果、「正しい」看護師もできあがるかもしれません。でも、その「正しい」看護師は「表現することを失っている」可能性も非常に高いです。「本当に正しいことってなんだろう」と考えることをやめてしまいます。「自分ってダメだけど、自分は正しいことをしているんだ」という気持ちだけで生きて行く。私にとっては苦行そのもの...。週2くらいなら看護師として働けるだろうけど...、現場での実践となるとある種の「鈍感力」がないと働けないですよね。だって、よく考えればそれってよくないかも、みたいなことにも、病院がGOと言えば、そのことに加担することになるわけですから。

時間切れになりました。「表現」したりない。

2015年6月17日水曜日

勇気づけることと、自由になることとの関係

勇気づけられている状態とは、「他者は仲間だ」という気持ちが持てて、かつ「自分には能力がある」と思えていること。

ここで大事なのは、あくまで「自分でそう思う」かどうかの選択ができているかどうかだと思います。他の誰かから「みんなあなたのこと仲間だと思っているよ」とか「あなたの能力を評価しているし、あなたがいてくれてありがたいと思っているよ」と「評価される」ことではありません。

非常に難しいことですし、自己中心的な発想のように思えるかもしれませんが、「課題の分離」の視点で「他者の思考は操作できない」と考えると、「評価される」ことを目的とすることが自己中心的な発想と考えることができます。

あくまで、自分が「他者は仲間」で「自分には能力がある」という気持ちのまま、ライフタスクと向き合うことが大切だと思います。その過程で、誰かに否定されたり失敗したい悲しんだり怒ったりすることはあるかもしれません。そんなときは、おもいっきり悲しめばいいわけです。

「嫌われる勇気」を初めて読んだとき、私は「心が楽になる」ための方法を探していました。今思うと、本質的に「心が楽になる」ためには「自分の生き方を貫き通し、自由になる」ことではないかと思い始めています。そんな生き方をしたとしても、むしろそんな生き方をしているからこと、「存在していること自体に価値がある」ことが私の支えとなります。

今日も生きています。まるもうけ。

2015年6月16日火曜日

今、この瞬間からきっといい日になる

仕事でうまくいかないことが多かったり、失敗したり、自分のキャパを超える様な仕事量のとき、自分がダメな人間だと思ったり、自分のいる周囲の人的・物理的環境を非難したりする傾向が強くなります。
ネガティブな考え方に聞こえるかもしれませんが、「どんな悪いことをしても、良いことをしても、"存在していることの価値"という視点から考えると、人間としての価値の差はまったくない」と言えます。バガボンドで宮本武蔵が天から地上を見たときに俺もお前も同じだ、みたいなことを言っていたときから、この考え方は自分の中で違和感がないです。
大事なことは、過去の功績による人間の価値ではなく、これからどうするかの一歩を踏み出そうとしているかしていないか、それに尽きると思います。今、この瞬間からいい日にするために、今日も楽しく生きる。

2015年6月12日金曜日

「執着心」にとらわれないことは、豊かさの一つの要素でしかない

執着してますか?自分の社会的立場、収入、健康etc...。執着することは「悪」という意味づけをすると、「正」としての対義語は「大切」なのかな、と思います。例えば「妻」を大切に思うのはいいが、執着すると憎しみが芽生える、といった感じでしょうか。

私は、「執着心」にとらわれないことこそが豊かさであると考えていました。しかし、当たり前ですが、それは条件によって変わってくるのだと思いました。ホントに当たり前の話ですが、痛風で痛みが強いときに健康に執着しないわけない、ということです。

豊かさを感じることは、住む場所とか気候とか物理的な条件や経済状況など、たくさんの要素が絡み合って生まれるものですよね。つまり、豊かさの感じ方なんて人それぞれで、豊かさに真理なんてない、ということです。

豊かさは条件によって様々に変化するんだなとつくづく思いました。

自分にとっての豊かさって何だろう、と考えることでいいわけですね。その考えを誰かに押し付けることは、豊かではないでしょうね。

やはり、今こそ誰かに批判されようと「自分はこうするんだ」という決断で自分は動いているんだ、という感覚が必要なのでしょうね。

2015年6月7日日曜日

対等な人間関係を目指して接していると、見下す学生がいる...

これ、辛いものです。ある程度はしょうがないと思っていましたが、実習など、接する機会が増えると、どうしても辛くなる。

最初、学生からバカにされたときの今の私の心境は、まだ対等な関係が築けていないことの証拠なのかも、などと考えていました。でも、これはこちらが対等な関係を築けていたとしても、相手が対等と感じていない場合に生じることなのでは、と思うようになりました。

そのような接し方になる学生に対しては、ある程度距離を置こうと感じています。ちょっと消極的な考え方ですが、課題の分離を考える上では、大切な行動なのだと思うようにしています。

すべての学生と良い人間関係を築こうとする私の「執着」が生んだ苦しみを紹介してみました。

2015年6月6日土曜日

「期待」せず、何にも「執着しない」ということ

何はともあれ、まずは「自己受容」、が最近のテーマです。今の自分を認めてやること。「自己肯定」ではなく「自己受容」です。「肯定」は良いか悪いかよくわからないことまでも無理やり「肯定」にもっていくイメージですが、「受容」は受け入れることであり、肯定でも否定でもない非常にフラットな状態、なのでは。

「自己受容」ができなくなるとき、大抵はミスをしたときです。そのミスがなければ周囲の「期待」を裏切ることはなかったわけですから。そんな周囲の「期待」に応じられなかった自分に対して「価値がない」と思ってしまい、同時に「自己受容」ができなくなるわけです。では、そんなときにはどんな考え方でいればいいのでしょうか。

アドラー的には「行為」ではなく「存在」の価値に立ち戻る、ということになると思います。「存在」していること自体に価値があり、その価値は「行為」を上回ることがない。当然といえば当然ですよね、「存在」がなければ「行為」が生まれるわけはないのですから。

そもそも、「期待」するというのは好ましい状況なのでしょうか。全ての「負の感情」はこの「期待」を持つことから生まれると思いませんか。「いつもの」馴染みの飲食店で「いつもの」味が提供されなかった、いつもは電車が時間通り来るのに来なかった、夫からひどいことを言われた、などなど。相手に対する「期待」があるからですよね。もっと言うと、その「期待」に「執着している」状況です。そんな「期待」に胸踊らせたり、落ち込んだり、怒ったりするのは、相手が「存在」していることに対する感謝を忘れてしまっているからじゃないでしょうか。「存在」なくして「行為」は生まれませんし、同時に「期待」も生まれません。

生活の中で生まれる「期待」に対して、少しずつ「執着」を減らすことで「自己受容」が促されるのではないでしょうかね。

こうやって書くことで、また一つ頭が整理されますね。

2015年6月4日木曜日

何が起きても、心が乱れる時間は最小限にしたい

最近、自分のキャパシティーを超えそうな状況で、少々疲弊しておりました。そんなときにふと、「人として強い」ってどういうことなんだろうって考えていました。正確には、強くあろうとする人はどんな考え方を持っているんだろう、そして、どんなことを実行しているんだろう、といった内容でしょうかね。

今の私がすぐに思いつく「強い人」は「人生の課題に対してひたむきに取り組む人」かなと思います。考え方が強くアドラーに影響されておりますが、いわゆる「ライフタスク」に対して向き合っている人ですよね。じゃあそういう人って、普段とは違う大きなストレスを感じているときに、どんな考え方をしているんでしょうか。

一つは、やはり「自己受容」だと思います。まずは今の自分をきちんと認めてやる。「いいんだ、今まず生きているだろ」とそこに感謝することができる状態ですよね。そう思えれれば、今の困難な状況で無力感を味わう時間が最小限ですむ気がします。

もう一つは、「貢献感」ですかね。今の自分は、その課題に対してどんな貢献ができるんだろう、どうやって(あくまで自分なりに)相手に対して(良く思われようとかではなく)貢献できるようになるんだろう、という気持ちでその課題に取り組めるのか。このとき、見返りを求めたくなるのが一般的かもしれません。私がこれだけ頑張ったのだから、あなたも私に見返りを...そうじゃないと私は幸せとは言えない、という関係性です。でも、心配無用です。あなたが「頑張った」ことそのもので幸せな気分には十分になれます。

誰かのために「頑張った」ことそのもので、なぜ幸せな気分になれるんでしょうか。それは次に述べる共同体感覚とも関連が深いのですが、少なくとも「自分なりに頑張った満足感」で大部分が満たされると思います。この感覚を掴むのは難しいかもしれませんが、わかりやすいのは、まだ物心のつかない子どもが車にひかれそうだったので助けた(非現実的過ぎるかもしれませんが...)という場面です。そういった場合、多くは母親がそばにいるでしょうが、仮にいなかった(さらに非現実感が増しますが...)としても、その子どもから何も感謝の言葉を言われなかったとしても、おそらく「よかった...」という安堵感とともに、自分が誰かの助けになれたという「貢献感」の感覚が得られます。私は、「頑張る」という行為そのものは、常にそういう感覚で良いと思っています。相手の見返りがどうとかはひとまず置いておいて、今向き合っているこの人に、私として実行するべき最善の行為はなんなんだろうと考え、それを実行するだけでいいんです。もちろん失敗もあると思います。でも、あなたはまだ生きています。そう、また「自己受容」から始めればいいんです。その「自己受容」で得られた幸せな気分をひっさげて(?)、また「貢献感」のために(?)考え、実行すれば良いんです。

私が思う「強い人」は、この考え方のループをすさまじく素早く切り替えられ、かつ実行できる人なんじゃないかな、と思う今日この頃です。

私の現状を言えば、今はまだこのBlogに綴る時間を持つ、酒を飲むなどを経ないと切り替えられない状況です...。