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2015年7月13日月曜日

岸見アドラー心理学は、人を操作するための科学ではない

基本的に、人を操作するものであってはならないのです。岸見先生の本をまた買いました。


嫌われる勇気より、少し具体的に書かれている印象です。この本を少し読んで改めて思ったのは、人を操作するための手法であるべきではない、という点です。あくまで、自分が対人関係から自由になるための手法であるべきだということだと思いました。

子どもと日々生活を共にしていると、生活する上で必要な食事、排泄、清潔に関わる行動を促すのに苦労します。嫌われる勇気を読んで1年くらいが経過しますが、もうすぐ3歳になる息子と、どうしたら対等な関係になれるか...を目標にしていたつもりでしたが、いつの間にか私は、息子をいかに自分の思い通りに動かせるかを考えてしまっていました。できるだけぐずらずに目的の行動に促す、それがうまくいけば「ありがとう」と言っていました。それでは「褒める」と一緒だということに気づいた気がしました。「褒める」とは「自己中心的な行動そのもの」だと思いました。まずは子どもが存在していることそのものに注目し、感謝したい。その上で子どもの選択を見守れる「技術」を私が身につければ良いわけです。その「技術」の選択肢が私は少なすぎるんだと思いました。3歳といえど、「理屈」があった上で自分がこうしたいという表現をしていると思います。その「理屈」を信頼し、見守りたいです。

病棟実習で学生と関わるときも同様です。学生は今までの生きてきた積み重ねを駆使して、常に自分で「選択」して行動しています。それを信頼したいです。私自身、実習病棟で指導を担当いただく看護師に対してのアピールとして学生をきちんと指導しているように見せる「自己中心的な行動」はとりたくないです。患者の生命に関わったり、病棟の業務に支障をきたさないレベルでの線引きは難しいと感じていますが、学生には指導担当看護師や教員に「ウケがいい行動」を促すのではなく、「論理的・科学的・合理的」に考えた上での選択ができるような関わりが、教員に求められているんだと思います。「論理的・科学的・合理的」を「賞罰」を介して伝える必要な皆無です。むしろ、「賞罰」が最も思考を遮断しています。

偉そうに書きましたが、今思うところを整理してみました。

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