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2015年6月6日土曜日

「期待」せず、何にも「執着しない」ということ

何はともあれ、まずは「自己受容」、が最近のテーマです。今の自分を認めてやること。「自己肯定」ではなく「自己受容」です。「肯定」は良いか悪いかよくわからないことまでも無理やり「肯定」にもっていくイメージですが、「受容」は受け入れることであり、肯定でも否定でもない非常にフラットな状態、なのでは。

「自己受容」ができなくなるとき、大抵はミスをしたときです。そのミスがなければ周囲の「期待」を裏切ることはなかったわけですから。そんな周囲の「期待」に応じられなかった自分に対して「価値がない」と思ってしまい、同時に「自己受容」ができなくなるわけです。では、そんなときにはどんな考え方でいればいいのでしょうか。

アドラー的には「行為」ではなく「存在」の価値に立ち戻る、ということになると思います。「存在」していること自体に価値があり、その価値は「行為」を上回ることがない。当然といえば当然ですよね、「存在」がなければ「行為」が生まれるわけはないのですから。

そもそも、「期待」するというのは好ましい状況なのでしょうか。全ての「負の感情」はこの「期待」を持つことから生まれると思いませんか。「いつもの」馴染みの飲食店で「いつもの」味が提供されなかった、いつもは電車が時間通り来るのに来なかった、夫からひどいことを言われた、などなど。相手に対する「期待」があるからですよね。もっと言うと、その「期待」に「執着している」状況です。そんな「期待」に胸踊らせたり、落ち込んだり、怒ったりするのは、相手が「存在」していることに対する感謝を忘れてしまっているからじゃないでしょうか。「存在」なくして「行為」は生まれませんし、同時に「期待」も生まれません。

生活の中で生まれる「期待」に対して、少しずつ「執着」を減らすことで「自己受容」が促されるのではないでしょうかね。

こうやって書くことで、また一つ頭が整理されますね。

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