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2015年6月4日木曜日

何が起きても、心が乱れる時間は最小限にしたい

最近、自分のキャパシティーを超えそうな状況で、少々疲弊しておりました。そんなときにふと、「人として強い」ってどういうことなんだろうって考えていました。正確には、強くあろうとする人はどんな考え方を持っているんだろう、そして、どんなことを実行しているんだろう、といった内容でしょうかね。

今の私がすぐに思いつく「強い人」は「人生の課題に対してひたむきに取り組む人」かなと思います。考え方が強くアドラーに影響されておりますが、いわゆる「ライフタスク」に対して向き合っている人ですよね。じゃあそういう人って、普段とは違う大きなストレスを感じているときに、どんな考え方をしているんでしょうか。

一つは、やはり「自己受容」だと思います。まずは今の自分をきちんと認めてやる。「いいんだ、今まず生きているだろ」とそこに感謝することができる状態ですよね。そう思えれれば、今の困難な状況で無力感を味わう時間が最小限ですむ気がします。

もう一つは、「貢献感」ですかね。今の自分は、その課題に対してどんな貢献ができるんだろう、どうやって(あくまで自分なりに)相手に対して(良く思われようとかではなく)貢献できるようになるんだろう、という気持ちでその課題に取り組めるのか。このとき、見返りを求めたくなるのが一般的かもしれません。私がこれだけ頑張ったのだから、あなたも私に見返りを...そうじゃないと私は幸せとは言えない、という関係性です。でも、心配無用です。あなたが「頑張った」ことそのもので幸せな気分には十分になれます。

誰かのために「頑張った」ことそのもので、なぜ幸せな気分になれるんでしょうか。それは次に述べる共同体感覚とも関連が深いのですが、少なくとも「自分なりに頑張った満足感」で大部分が満たされると思います。この感覚を掴むのは難しいかもしれませんが、わかりやすいのは、まだ物心のつかない子どもが車にひかれそうだったので助けた(非現実的過ぎるかもしれませんが...)という場面です。そういった場合、多くは母親がそばにいるでしょうが、仮にいなかった(さらに非現実感が増しますが...)としても、その子どもから何も感謝の言葉を言われなかったとしても、おそらく「よかった...」という安堵感とともに、自分が誰かの助けになれたという「貢献感」の感覚が得られます。私は、「頑張る」という行為そのものは、常にそういう感覚で良いと思っています。相手の見返りがどうとかはひとまず置いておいて、今向き合っているこの人に、私として実行するべき最善の行為はなんなんだろうと考え、それを実行するだけでいいんです。もちろん失敗もあると思います。でも、あなたはまだ生きています。そう、また「自己受容」から始めればいいんです。その「自己受容」で得られた幸せな気分をひっさげて(?)、また「貢献感」のために(?)考え、実行すれば良いんです。

私が思う「強い人」は、この考え方のループをすさまじく素早く切り替えられ、かつ実行できる人なんじゃないかな、と思う今日この頃です。

私の現状を言えば、今はまだこのBlogに綴る時間を持つ、酒を飲むなどを経ないと切り替えられない状況です...。

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