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2015年4月5日日曜日

看護大学では講義・演習に「目標」や「目的」を詰め込みすぎて本末転倒になっている

イケハヤさんのブログに影響されましたので、「逃げ腰語尾」を使わずに書いてみたいと思います。

大学の看護教員のほとんどは、熱意があればあるほど、講義や演習に重きを置いている。講義・演習の中で学生に吸収してもらいたいことや伝えたいことをたくさん詰め込む。おそらく、看護師として勤めている人でさえ、講義・演習で展開される知識の広さ(浅さ?)具合に、消化不良を起こす。

基礎教育において学生が身につけるべきことは、以下の3点。

  • 「自分が他者貢献して楽しく生きる方法論」
  • 「科学的・論理的な思考」
  • 「自分に合った健康的な生活」

やれ「看護過程」だの「看護技術」だの「看護の精神」などは、勝手についてくる。正確には、身に着けたいと思えれば自力で習得できる。それを上記の3点がはっきりしないうちからあれもこれも学生に伝えようとしたって、こちらの空回りに終わる。というか、「相手を操作すること」は到底無理です。

我々はあくまで、学生が自力で考えたり行動したりすることを制限せず、ルーブリックなんて曖昧な評価尺度で学生を小さな枠に留めることなく、個々の能力を解放してあげること、自分の得意分野に気づき、それを伸ばせる環境を整えてあげること、しかできない。

話は違うけど、そもそも私は西洋医学に偏った「病院」というシステムや、自分が本当に良いと思う医療に携われないことにも違和感がある。その「病院」に勤めるための「看護師」を養成するなんて、ただの「洗脳」でしかない。既存の間違っていることも考えられる科学的根拠を鵜呑みにして、医療に携わるなんて、全然楽しくないし、ただ既存の知識を得ようとすることを「主体的」とは言えるはずもない。

というわけで、看護の先生は、ただただ今まで自分が積み重ねてきた知識を伝授し、洗脳することだけではなく、一緒にディスカッションすることを取り入れるべきだと思うし、その力は学生に十分ある。自分の知識や考えが「正しい」ということを伝えるのではなく、一緒に「新しい回答」を考えるべきだ。その「新しい回答」を見出す過程こそが「主体的」であり、「科学的・論理的な思考」を修得するために必要なことである。

そのためには、既存の知識を最短ルートで修得してもらう必要がある。懇切丁寧に時間をかけて作成したパワポで、さらに90分座学で講義に時間を投資してるなんてもったいない。21世紀なんですよ?(イケハヤさんの影響)ICTを活用すれば既存の知識を理解することにそれほど時間はかからないと思いますし、いつでも調べられる環境を整えてあげる方がよっぽど良い投資です。

「逃げ腰語尾」を使わないのは、かなり気持ちいいですね。自分の意見を言ってるぞ、という気分になれました。

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