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2016年1月10日日曜日

競争から降りることの難しさ

競争はなんのためにあるかを考えてみたら、自己肯定感のためかな、と思いました。誰かより優れているから、正しいことをしているから、
自分には価値があるはずだという幻想ですかね。
そうはいっても、なかなか実践できません。ダメにならないように頑張らなくてはいけないことを良しとする価値観が当たり前の時間を長く過ごしてきたので、なかなか「存在そのものの価値」を理解するに至っていないです。
友人の第二子が生後半年で生死をさまようような大病を患い、今も多少障害が残っている状況で、予後も予想がつかない状況であることを知りました。その友人が語っていたのは「生きててくれてよかった」ということでした。何も望まない、生きてさえいてくれてれば、とその子には思えるそうです。ですが、上の子にはなかなかそうは思えず、もう一人でできるでしょ、という目線になってしまうと話していました。理想の子どもと比べてしまうという状態ですね。

言葉で「存在そのものの価値」なんて言ってましたが、全然理解してない自分に何とも言えない感情になりました。私は子どもに対する目線を対等にできるようにはなってきた気がしますが、やはり怒りで抑えつけて保育園の準備をしたりすることも多いです。その怒りがどこからくるかといえば、理想の子どもではないからです。思い通りにならなくても、課題の分離ができれば、怒りという感情は生まれないはずです。

競争に足を踏み入れない場面を増やしていきたいものです。「存在そのもの価値」というか「すべては無価値」と考えた方がいいのかもしれません。

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