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2015年3月31日火曜日

妻のパニック障害の現状

先日、妻の実家に帰省していました。子どもを預けられるので、私にとっても大きなメリットになる帰省。もちろん、帰省中はパニックになることはありません。実母の手厚いサポートがありますし、常に誰かが側にいる環境は、今の妻にとって重要な要素なのだと思います。

ですが、帰省前の週は、私が遅くなるとたちまち動悸や頻脈、不安感に襲われるようでした。「どうしてこんなに私が苦しんでいるのに帰ってこないのか」といった類の感情とともに症状が出現する、というのが私の理解です。デパス0.5mgを内服し、症状は多少コントロールできるようになったようですが、本人も薬を飲み続けるということにも不安があるようで、何とか改善したいと望んでいます。

妻にとって、今の環境が彼女のキャパシティーを超えているのかもしれません。子どもがいる幸せを感じると同時に、その責任の重さを感じていたり、母もしくは妻としての役割を果たせていないのではないかという気持ちもありそうですし、社会的な役割を持っている(仕事をしている)自分を捨てられず、何とかそこには執着しようとする自分...。そのバランスがとれていない気がしています。キャパシティーを超えているということよりも、バランスが取れていないということなのかもしれません。

私も私で、自分をコントロールできておらず、ついつい酒の飲み過ぎで、体調を崩し、心身のバランスが取れていないのが現状です。ibaya通信で元気を出しつつ、職場にはバレないようにのんびり過ごしたいと思います。

2015年3月30日月曜日

看護学学習中の学生が自分の能力を最大限に解放するためには何が必要? Part 1

大学は教える場ではなく、考える場だと思います。自分で自分なりの答えを導き出す過程に価値があり、その過程がトレーニングであるという考え方です。少なくとも、私のいる大学ではその要素が少ない。学生は教えてもらおうとしてるし、教員は教えようとしている場面が多い。おそらく、20年前よりは、教える教えられる関係が軽減したと思うけど、まだまだ「教員は偉い人、学生は教わる人」みたいな環境です。

私は、自分なんかよりずっと発想力の豊かでIQの高い学生がどんなアイディアを持っているんだろう、という考えがあります。学生が持つその力を何の遠慮もなく解放できたら...と思うとすごくワクワクします。ルーブリックなんて、学生の可能性を潰すようなものにしか感じられない...。評価表で、自分の悪いところを明確にして、自分の弱点ばかり見せられても、自分の得意なところは見えてこないでしょう。教員側の自己満足でしょ。

では、大学のカリキュラムにおいて、どんな方法が学生の能力を最大限に解放できるのか。そのヒントは「レール」と「脱線」です。

まず、「レール」について。テーマ、と言ってもいいかもしれません。すべてが自由になると、逆にどうしていいかわからなくなる感じがあると思います。いきなり1000億円もらってもどうしていいかわからない、みたいな?なので、ざっくりとこれについて話します。みたいな内容があれば良い。例えば、「人間における脱水とは?」みたいな。もちろん、脱水を語るためには基本的な知識が必要なので、そこは事前学習が必要です。その部分が「レール」です。テーマに合った知識をある程度自分で説明できるくらいまでに構築しておく。

続きは次回。

2015年3月29日日曜日

学士(看護学)を取得した看護師と、そうではない看護師に違いはあるか? Part 2

なぜ、自分の適正に合った職場であったとしても、つまらなくなり、続かなくなるか。もちろん、一生続けたいと人も必ずいると思います。その人はその職場に「貢献感」を見出せたから続けたいと思うし、続けられたのだと思います。しかし「貢献感」だけで言えば、続けられなかった人も大なり小なり得られていたと思われます。・・・そうです、続けられるか否かの大きな違いは「楽しい」か否かに他ならないと思います。「自分にとって楽しいか否か」です。

「仕事の報酬は仕事」という言葉があるようですが、これは正にそれを言い当ててると思います。言うなれば、「仕事」という言葉が適切ではなく、「楽しさ」にしてもいいかもしれません。あまりかっこいい言葉ではないけど。「楽しさの報酬は楽しさ」。当たり前だろって感じになっちゃったけど。要は、仕事は義務ではなく自分を楽しませるためにあるということを前提にして「仕事」を捉えてみると、もはや仕事なんだから楽しくてやってるんだかわかんない、みたいなことになる。22世紀の「仕事」の概念はそうあってほしい。

看護師の離職率が高かったけど、ちょっと低くなった等々語るよりも、もっと「ヒト」が働たくなるような医療現場を作るために試行錯誤する方がベターなんじゃないかなと思ってしまう。医療っていう業界?がとても大きな影響力を持つようになって、医師や看護師は日々プロトコルに従った医療を提供していて、その過剰なサービスを提供するのために力尽き、考える力が残っていない。「ホントにこの医療って必要なの?」と。いや、正確には、考えているけど行動する時間が残ってない。割と安定した給料が提供されているのに、それを壊してまでそんなギャンブルみたいな行動をする価値がない。

自分を肯定したいだけなのかもしれないけど、私は「ホントは何が必要なんだろう?」って常に考えられる人でありたいし、ほんの少しでも良いから行動できる人になりたいと思っているつもりです。
話が長くなりましたが、学士(看護学)を取得した看護師は、常に批判的思考でいれて且つその思考に対して行動できる人であって欲しい、と言いたかっただけです。そうではない看護師との違いは、その批判的思考に伴う行動、にあるべきなんじゃないかなと思いました。


仕事をしないことに対する言い訳になりますが、私は仕事を多少おろそかにしてでも、批判的思考と行動に費やす時間を確保したいなと思っています。それが私の「楽しさ」になっています。

2015年3月28日土曜日

学士(看護学)を取得した看護師と、そうではない看護師に違いはあるか? Part 1

要は看護系大学を卒業したか否か。言葉にすればたったそれだけだし、現状、そんなに大きな違いはないと思っています。臨床現場では、大卒は「使えない」「頭でっかち」と評価されているという噂はあるみたいだけど、それも結局は個人差の問題。病院で看護師として働き続けるのってかなり広く浅く色々な能力が必要だと思いますし、仕事に個性が出やすい職種と感じます。

おそらく、たくさんお金をかけて適切な人材を確保して分析すれば、先天的にどんな能力が高ければ、「使える」看護師なのかを判断できると思います。その「ふるい」にかけて、あなたはこんな能力が高いから呼吸器内科病棟、あなたはこんな能力が高いから循環器外科病棟、なんていうこともできちゃうと思います。でもそれって、動かされてる方は「貢献感を持てない」と思います。

おそらく、その「ふるい」のおかげで「楽」にはなると思います。あくまで手堅い職業として看護師を選択した人にとっては、自分の能力に適した教育を受けて、自分に見合った病棟に配属されて、エスカレーター式に進める。まさに「適材適所」と言えなくもない。意外に、そんな教育を受けられることを望んでいる高校生や中学生は多い気がします。苦しみが最低限で、安定した収入が得られる職業に就けるし。

でも、きっとそうして就いた仕事は、つまらなくなるし、継続できない。その理由は次回。

2015年3月27日金曜日

満腹なのに血糖値が上がらないときの感覚

早速、朝に晩飯を作っておく作戦を実行し、成功しました。メニューは、Kenスープ風黒ごまスープ、ゆで卵、中落ちカルビのグリルです。スープには、グリルのときに出た脂を加えて美味しさを演出しました。黒ごまの香ばしさでかなり美味しいと個人的には思ってます。ラード入っているので、ラーメンが食べたくなってしまいそうな味です。

昨日、肉卵チーズ食を実践しました。やはり、満腹なのに満足できない、という症状に襲われました。しかし、今回は(満腹なのに満足できないことによる)焦りのような感覚があまりなく、ちょっと落ち着くまで何も食べないでいたところ、15分後には満腹感も軽減してきて、落ち着きました。そのあとチーズ食べたくらいです。

私の経験した、焦り、のような感覚が起こってしまう原因は二つあるのかなと思いました。一つは「糖質による満足感が得られないことへの中毒症状」であり、もう一つは「早食い」だったんだと思います。もう少し時間をかけて食べれば、落ち着いて?満腹になれるのかなと思いました。食事って、本来どうあるべきなんでしょうね?食べることに集中しすぎると必ず早食いになってしまいそうだけど...。夫婦の会話を楽しみながら食べられたらいいんでしょうかね。

2015年3月26日木曜日

肉卵チーズ食を継続するための個人的なアイディア

アミーチョ・サロンにはすっかりお世話になりっぱなしの日々を過ごしております。とても勉強になっています。Kenさん、厳しい物言いですが、かなりストライクな切り口ばかりで、とてもありがたいです。

着実に肉卵チーズ食の大切さがわかってきました。数日体験してみて、その効果や自分の糖質中毒ぶりも把握できてきました。しかし、やはり継続することの難しさがあります。それははっきり言って「妻」です。日々の食生活を支えてくれている妻からすると、そんな偏った食事は...という気持ちと、せっかく作ったのに(糖質主体の食事を)食べないんだ...という気持ちになってしまうようで、継続しにくいのが正直なところです。

妻も、なぜ私が肉卵チーズ食を始めているのか、なんとなく理解してくれているようです。特に私は、妻の橋本病やらパニック症状なども、ホルモンバランスや神経細胞が正常に働くようになれば、改善すると考えています。そのためには、高タンパク質高飽和脂肪酸食低炭水化物を実践する必要がある、という理解になりましたので、ぜひ妻にも実践してもらいたい。ですが、炭水化物で得られる満足感を捨てられないず、動物性脂肪が身体に良いという考えに馴染めていない妻は、朝にクロワッサンと甘いヨーグルトを子どもと自分に食べさせ、昼も高炭水化物食を食べ、夜はリゾットとビーフシチューというメニューにして満足しているんです。いやいや、少しずつ説得してみせます。あくまでこれは現状把握として捉えたいと思います。

幸いにも、妻は肉も卵もチーズも大好きです。正直言って、私の調理の技術があと5ランクぐらい上がれば、妻も満足できる料理を日々提供できるのですが、時間的にも技術的にも難しい状況ですね...

今書きながら閃きました。こうやってアウトプットするのは大切ですね。妻に晩飯を作って上げれば、妻はまずそれを食べてくれます。まずは、私が毎晩晩飯を作って上げれば良い。ですが、仕事で遅いときも多少ある。早朝活動がそれほど苦ではない私、閃きました。朝に晩飯を作っておけば良いんです。こんな簡単なことが思い浮かばないなんて。

とりあえず、次回の晩飯はシンプルにガーリック風味の牛肉のグリル、バターたっぷりの目玉焼き、ミモレット。これでいきたいと思います。

2015年3月20日金曜日

1日1食の方法をリニューアル

アミーチョ・サロンなるブログに出会いました。私にとっては、かなり革新的な内容でツボにはまっています。このブログで述べられている食事に関する考察の要点を私なりにまとめますと、以下の通りです。
  • 1日1食、たまに断食を推奨
  • 高たんぱく質&高飽和脂肪酸食で低炭水化物を推奨
  • 無糖ブラックコーヒー、赤ワイン、蒸留酒はOK
  • 結構毒舌(笑)
毒舌なところはあまり共感できませんが(笑)、私が今まで学んできたものの核心をついてくれた!みたいな内容でちょっと感動してます。上記の要点を実践しようとすると、食材はかなり制限されてしまい、肉・卵・チーズが主に摂取できる食材になります。糖質中毒の症状緩和のために糖質0の甘味料は必要だと言っていて、ちょっと許してくれるみたいです。そういうところは優しいのに、既存の根拠がない理論には毒舌(笑)。先日私が実践したメニューは下記の通りです。この日は豪華にしました。

  • チーズ盛り合わせ(ミモレット2年熟成、フレッシュチーズなど)1600円くらい
  • ぶりとカツオタタキの刺身1500円くらい
  • 鶏ハムのオーロラソースとチーズ100円くらい?
  • 鶏ももの唐揚げ(オリーブオイルとラードで)800円くらい?
  • 赤ワイン2杯程度(エノテカでイタリアのピノノワール)1000円くらい
  • グリコ糖質カットアイス100円くらい

でした。正直に言いまして、お腹はいっぱいになりましたが、
食べ終わった後、炭水化物への欲求が半端じゃない!!
脂食べ過ぎて具合悪いんだが米食べたいんだがわけわからなくなる感じでした。その日は糖質カットアイスと意志力で乗り切れました。翌日、体脂肪が減ってくれたので、しばらく頑張ろうとは思います。糖質カットアイスがなければ袋麺食べてた...自分がどれだけ糖質中毒なのかを思い知りました。炭水化物、恐るべし。それだけ人体にとって重要なエネルギー源だってことだよね。炭水化物美味そう〜とか思えないような脳だったら、飢餓時代を生き延びれなかったでしょうね。おかげで我々の命につながってる。

というわけで、プチ高たんぱく質高飽和脂肪酸食低炭水化物ダイエットを実行中です。コストを考えないと続かないから、その点は検討中だけど。上手く継続できるようにしていきたいところです。狙ってるのは牛脂です。ネットでかなり結構安く買える。鶏もも肉が松坂牛風味になるとかマジ嬉しい。美味いかは別ですが...。ま、追い込みすぎずに続けてみます。1日1食はほぼ意志力なくても続けられるようになってきていたにも関わらず、筋肉が減って困っていたので、良い気分転換になりそうです。

2015年3月19日木曜日

妻がパニック障害になりまして!

内容が多少ネガティブだと思ったので、感嘆符で明るくしてみました。ここ数ヶ月の間に、数回パニック障害とほぼ同様の症状が何度か出現していた、私の妻。妊娠中にも1〜2回あったみたいだけど、だんだん自覚症状が重いものに感じるようになってきたようです。そして、またなったらどうしたらいいんだろう的な「予期的不安」も結構辛いみたいです。具体的な症状としては下記の通り。一回で全てが出るわけではありませんが。

  • 120回/分以上の頻脈
  • 不安感、焦燥感
  • 冷や汗、手に発汗
  • 胃痛
  • 頭痛

そして、それらの症状の出現するタイミングが、思わずイラッとしてしまうんです。なぜかというと、「自分の思い通りにならなかった」という類に似た感情とともに出現するからです。例えば下記の通り。

  • 子どもの視ていたテレビが耳触りだったので、変えようとしたが、子どもがだだをこねて応じなかったとき
  • 私が飲み会で遅いと言っていたが、辛いので帰ってきて欲しいと妻に言われ、私がだだをこねて(笑)応じなかったとき
  • 私が妻の食べたいものを作ろうとしないとき
などなど。柔軟性に乏しくなってしまうようです。昨日は、私も実践中の高タンパク質高飽和脂肪食に賛同してくれましたが、本人の気分次第なので、その辺が難しい。

さて、今後の私の具体策を考えてみたいと思います。心療内科に受診する...なんていうのは「着想」の大好きな私の求めるところではありません(笑)。それこそ、薬漬けになっておしまいのパターンになりかねません。受診はあくまで対症療法としての手段と、病院に通っているから大丈夫という妻の気持ちに配慮してるという意義しかございません。妻は今のところ認知療法やらとかヨガとかアロマとかに気持ちが傾いているようですが、私からするとそれらも対症療法。考え方の根治、という意味ではアドラー心理学的なアプローチをしてくれる心療内科なら大賛成ですが。私が考える対応策は一つです。
妻の気持ちに配慮しながら、高たんぱく質で高飽和脂肪食を楽しんでもらう
です。そうです。おそらく微量元素的な栄養も大事だとは思います。でも、それは土台がないところでインテリアや動線を気にしている建築家みたいだなと。身体の多くを構成するたんぱく質と脂肪の質をしっかり保つことが、一番の治療だと思います。そして、これは私の目標になるんだと思いますが、
妻とアドラー心理学(岸見先生の)的な人間関係を構築する
です。そうです。ここで「かわいそうな妻、私が助けてあげるよ、心配しないで」なんていう言葉をかけたり、対応をしてしまえば、それこそ妻のためにならないでしょう。別に私は何の病気の診断も受けていませんが、私や子が明日死ぬかもしれないし、家族が誰か死ぬかもしれない。そうなったときに、課題の分離が苦手で、舞台の上でスポットライトを浴びて生きているんだという感覚をあまり持てていない妻は、おそらく多くの時間を悲しみとともに過ごしてしまうでしょう。もう想像に難くない(笑)。いつか必ず立ち直るとは思います。ただ、悲しんでいる時間はもったいないので、最小限にしてもらいたいなと。こっちだって死にたくて死んだわけじゃないのに、妻にまで悪い影響があったら報われませんよ。

なんとなく、4月を新たな気持ちでスタートできそうな気がしてきました。こういう大きなイベント(?)は生き方を考える機会になって良いですね。物質は満たされているのに、心が満たされないような環境にいるなんて、21世紀って感じです。しかし、22世紀には心身ともに満たされる方法論がしっかり確立された世の中であって欲しいですね。そのために、自分が一人静かに一歩を踏み出す(と勝手に思い込む)ことに意義を感じる今日この頃です。

2015年3月18日水曜日

「自分が正しい」と思うことについて Part 2

自分が変な新興宗教みたいな考えに向かわなかったのは、アドラー心理学のおかげです。正確には岸見先生と古賀さんのおかげです。「嫌われる勇気」を読んでいなかったら、読んでいたとしてもアドラーの考えに賛同できていなかったら、「着想」を達成していたとしても、決して豊か人生ではなかったと思います。

「嫌われる勇気」の中で、このような一節があります。
ありのままのわが子を誰とも比べることなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはずです。
つまり、「ここに存在しているだけで、価値がある」ということです。「人類皆平等」とはちょっと違う意味なんだと思いますが、内閣総理大臣と生活保護を受ける人との間に、人としての大きな価値の差はないんじゃないか、という考え方です。もちろん、大きな影響力を持っている内閣総理大臣は「政治」というその中で重要な役割を果たしているんだと思います。しかし、内閣総理大臣という「役割」自体はその人以外も遂行可能なものです。 むしろ、他の人もできなければ成り立たない制度ですよね。でも、その内閣総理大臣をしていた「人物」に変わりはいない。家族がいたかもしれないし、家族よりも大切な友人がいたかもしれないし、飼い犬に最も頼りにされていたかもしれないし、その人のブログが誰かに頼りにされていたかもしれない。

考えてみると、至極真っ当なお話。社会的な「役割」が違うだけであって、皆同じ人間。つまり、学生だろうが教員だろうが、目標さえ共通の認識が持てていれば、学生が教員に新しいことを教えたっていい。ちょっと論理の飛躍かもしれませんが...。学生も教員も「学ぶ」という意味においては「仲間」です。ただ、ベースとなっている知識が違うだけ。教員だから「正しい」知識を持っているわけではない。大学での講義は、あくまでその教員がもつ主観的な理解において導き出した知見を学生が聞いた、というだけのこと。そこからどのような理解なり発展をさせるかは個々に委ねられていると思います。だから大学は面白い!と私は思っていました。

そうなんです。「正しい」っていう言葉に意味なんかないんじゃないか、というのが私の意見です。私の少ない経験上のことですが、社会的地位の高い人の多くは、「自分は正しいことをしている」という感覚が強いです。それだけ自分の考えや行動に有益さを感じている証拠なので、それ自体は問題ではないのですが、その「正しさ」をその他大勢にも求めようとしたその瞬間から、その「正しい」はまったく有益な意味を持たなくなります。アドラー心理学的には、他者の課題に土足で踏み入っていることになるからとなると思います。また、私は自分の視界の狭窄につながる、と思っています。自分が正しいと思って相手を論破しようとしているときは、すでに相手の立場に立とうとする意識がなくなっているからです。なので、物事もしくは論理を推敲できなくなっています。

今回私が最終的に言いたかったことは、「自分が正しいと思う必要なんてない。ワクワクすることはなんだろうって考えることが人生を豊かにする」です。

2015年3月17日火曜日

「自分が正しい」と思うことについて Part 1

もし、好きなように自己紹介をして良いと言われた場合、おそらくその場にいる人にとって私は「変わった人」と捉えられると思う。「少数派」であると思う。スネているわけでも自慢したいわけでもないつもりで、「変わった人」であり「少数派」であると思う。

このブログ内の記事をざっくりと読んでもらえれば、「なんとなく異質な印象」を持っていただけると思います。大学時代も、個性が強すぎて先輩から嫌われていた時期があったり、自己評価が高すぎたりした時期もありました。自己評価が高いというのはある意味今も続いていることだと思いますが、少し変化して「自己受容」寄りになってるんじゃないかなと思っています。

ストレングスファインダーをイケハヤさんのブログで知りました。


自分でもトライしてみたところ、下記の項目が該当しました。

着想

あなたは着想に魅力を感じます。では、着想とは何でしょうか? 着想とは、ほとんどの出来事を最もうまく説明できる考え方です。あなたは複雑に見える表面の下に、なぜ物事はそうなっているかを説明する、的確で簡潔な考え方を発見すると嬉しくなります。着想とは結びつきです。あなたのような考え方を持つ人は、いつも結びつきを探しています。見た目には共通点のない現象が、何となく繋がりがありそうだと、あなたは好奇心をかき立てられるのです。着想とは、皆がなかなか解決できずにいる日常的な問題に対して、新しい見方をすることです。あなたは誰でも知っている世の中の事柄を取り上げ、それをひっくり返すことに非常に喜びを感じます。それによって人々は、その事柄を、変わっているけれど意外な角度から眺めることができます。あなたはこのような着想すべてが大好きです。なぜなら、それらは深い意味があるからです。なぜなら、それらは目新しいからです。それらは明瞭であり、逆説的であり、奇抜だからです。これらすべての理由で、あなたは新しい着想が生まれるたびに、エネルギーが電流のように走ります。他の人たちはあなたのことを、創造的とか独創的とか、あるいは概念的とか、知的とさえ名付けるかもしれません。おそらく、どれもあてはまるかもしれません。どれもあてはまらないかもしれません。確実なのは、着想はあなたにとってスリルがあるということです。そしてほとんど毎日そうであれば、あなたは幸せなのです。

他にも4つくらい項目がありましたが、私が「変わった人」になった理由はここにあるな、と強く感じました。私にとっては可能な限り「着想」で占められる時間を大切にしたいんだなって思いました。おかげさまで、その強みを生かすことにためられいがなくなったことが私の少々浮き沈みが激しかった人生を少しずつ好転させていきました。うまく言えていないかもしれませんが「論理的にポジティブになれた」んだと思います。つまりは「自己受容」できたということです。アドラー心理学を勉強してみたり、1日1食やノンシャンプーに取り組めたのも、自分の中にある「着想」の欲求を満たすのに十分でした。多くの人は考えないであろう境地にいようとする自分を誇りに思えています。

やっと本題ですが、そうなってくると「自分の正当性を他の人にも知らしめたくなる」という欲求も生まれてきます。そりゃあ自分では、多くの人が取り組んでいない画期的なものに私は着手している、くらいの気持ちでいるので、それを家族や親しい人などに紹介したくなる。多少おおげさな表現ですが、「みんな、本当の真理を私は知ってますよ、教えてあげましょう」みたいな心境を持ちたくなる。もちろん、そういう想いにならないほうがいいんだろうな、ということになんとなく気づいているのですが、その理由を次回で書いていこうと思います。


2015年3月12日木曜日

1日に食べているタンパク質量を考えてみた

筋肉が減っているのが気になっていたので、今までのたんぱく質摂取量を計算してみました。その前に、自分に必要なたんぱく質量を考えてみると、一般的には体重1kgあたり1.0g〜1.5g程度と言われていますので、80〜100g/日くらい摂取すべきと考えると、参考メニューは下記の通りになります。

牛モモステーキ150g(約30g)
卵3個(20g)
鶏胸肉1枚(40g)

ご飯とかにも多少入っているので、その点は考慮していませんが、1日このくらい食べても損はないレベル。食べるの大好きな私は、この程度食べるのはわけないんですが、作るのが大変。この量だとさすがに美味しく食べたいですし。かなり意識して食べないとこの量は普段食べてなかったんだと思うと、やはり筋肉現象の原因は摂取不足ということが予測されるので、補っていこうと思います。

ここで気になるのは菜食主義の人たち。また、1日1食を極めた青汁しか飲まない森さん。私の勝手な憶測ですが、その方達は、たんぱく質源がなくても体内で生成できるようになっているんじゃないかと思います。人間のホメオスタシスにはそれぐらい秘めたる力があると思います。それが身体にとって良いか悪いかは今後100年以内にはわかって欲しいですね。

とりあえず私は、まだ肉を食べないという選択肢はとっておきたいので、今は食べます。美味しいですし。赤ワインと肉のマリアージュが味わえなくなるのは寂しい...。嫁さんは多大なる被害です。食費も上がりそうですし。コスパの高い鶏・豚・卵あたりのローテーションだったとしても、米よりは高いし...。今度はその経済性も見ていきたいですね。

2015年3月10日火曜日

1日1食継続中・・・体重「は」落ちた

隣のグラフを見ると、私の状況が分かるかと思いますが、筋肉も1kgくらい落ちていると測定されます。体脂肪率も朝と夕で最大3〜4%変わるので、一概に言えませんが、筋肉も落ちつつあるのかなという印象です。自分としては、たんぱく質を積極的に摂取していないのが原因かと思っています。1日1食開始前は、糖質制限を意識していて、今よりもかなり多くたんぱく質を食べていたと思います。とりももorむねを一枚/日くらいは食べていたように思います。

というわけで、今後はたんぱく質&プロテインをちょいと意識して食べてみようと思います。ちなみにプロテインは

に、柚子酢
と、ポッカレモン
を添加して飲んでいます。かなり甘ったるいプロテインが少し爽やかなになって飲みやすいので、かれこれ3年くらいはこの飲み方にしています。柚子酢を入れなくても、レモンだけでかなり飲みやすいと思っています。クックパッドに投稿したいぐらいです。ただ、このプロテイン、味がついているだけあってかなり添加物たっぷりなので、プレーンのものでもう少し安いものを探している状況です。

鶏肉の食べ方は、とりハムとかソテー、参鶏湯にして食べて行こうと思っています。妻が料理上手なので助かっています。体調や仕事の忙しさで作れないときもありますが、本人もダイエットになる意識があるので、作ってくれてます。

どうか筋肉が落ちませんように...


2015年3月6日金曜日

自分自身の「人生の嘘」 Part 4

「他者信頼」については、個人的に「自己受容」「他者貢献」の中で最も難しいと思っています。この「他者信頼」が崩れることから「自己受容」や「他者貢献」までに影響するパターンが多いと思います。
例)
他者「そんなんじゃダメじゃん」
自分(なんでそんなこと言われるんだ、こんな人に協力したくなんかない)

と、改行してみましたが、改行するまでもなく、人生において頻発する「批判」に対してよく起こる反応ですよね。では、他者信頼がしっかりしていると、どういう思考になるんでしょうか。他者信頼ができていれば、もし批判されたとしても、その批判は自分の全てを批判されているという極端な解釈にならず、「あ、この人には不愉快に思えることなんだ」や「なぜなんだろう」という建設的な捉え方にできるのではないかと思います。そのような捉え方になるためには、やはり「自己受容」や「他者貢献」の部分の骨格がしっかりしていることが必要になってくると思いました。

岸見一郎さんの投稿をもとに考えてみたいと思います。ここでは子どもの話に着目していますが、大人でも同様だと思います。メディアでは戦争や殺人など、「敵は身近にいる」ということを常に発信しています。敵を一人でも少なくするためには「他者信頼」を実践し続け、実践する人が増えることが一番の改善策のはずです。「嫌われる勇気」の中にもあって印象的だったのですが、「裏切られて悲しいときは、思いっきり悲しめばいいのです」と書かれていました。たとえ裏切られたとしても、信じ続けること、それが「信頼」なんだと。違う言葉を使えば「愛」「共同体感覚」なんだと思います。
私も、家族や親族に対しては「共同体感覚」に近いものを得られている気がしているのですが、「自分がしたいから(他者貢献を)やる」という感覚です。その「やる」内容はあくまで自分ができる範囲(得意な分野)のことですが、そのときは「むしろやらせてくれてありがとう」に近い感情があります。正直、その「やった」ことに対する相手のリアクションは期待してしまうのゼロではないですが、最近は少なくなってきている気がします。得られた「貢献感」で満足できる感覚。そうなってくると自家発電的に物事に取り組めることになるので、非常にECO(笑)

2015年3月1日日曜日

ワインの酸化防止ストッパー:Pulltex AntiOx

Pulltex AntiOxを使ってみました。

これは久しぶりの大当たりでした。

1000円Bordeaux赤に使用して4日経過...

バキュバンとか比べ物にならないです。というか、個人的にバキュバンは1日以内でギリその効果が分かるかどうかだと思います。真空にすることが却って悪い方に作用している気さえしていました。なんか酸がキツくなるのか、つんとする感じに味が変わってしまう。

それにくらべて、これは...もう感動です。抜栓直後との差はほぼありませんでした。これで心置きなくワインが残せるし、飲み比べなんかもできちゃうかも。上記したHPにはアロマ、アロマと何度も書かれていましたが、ホントにアロマが変わらないって感じでした。今度は白とか高いワインにも試してみたい。自宅飲酒を適度なものにできる気がしています。

1000円Bordeaux赤はまだ1/3残っているので、次は抜栓後1週間のときに試してみたいと思います。それほど美味いワインじゃないのに、このストッパーのおかげで感動している私です。

でも、ホントに最近はその辺のスーパーにも十分しっかりしたワインが置いてあるので、ブランドにとらわれず、色んなワインの味わいを体験したいと思います。高いワインは誰かが評価したり取り上げられたことで価格が大きく変動しちゃうからね。だから作り手のこととかが分かると本当はいいんだろうけどね。そこまで行くにはあと10年以上はかかるかな。