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2017年6月30日金曜日

精神的に消耗するようなことがなければ、自分のためではなく他人のためにアドラー心理学を活用できる

曲がりなりにも看護学部の教員をしております。

現在実習中で、それなりに消耗しつつも、

2016年12月30日金曜日

アドラー心理学を看護大学の学部教育で実践したらどうなるか妄想してみた

岸見先生の本を読む回数はすっかり減ってしまいましたが、やはり対人関係を考えるときは岸見アドラー心理学を根っこにするよう心がけています。

看護大学で行われている教育は、結局詰め込み教育です。

病院という場で働くための準備状態が整った人を育成すること

2016年7月3日日曜日

アドラー心理学を看護基礎教育で実践する

最近、岸見先生の本が数多く出版されていますね。ついつい買ってしまっています。現在、実習期間中で心身ともにしんどい思いをしているので、現実逃避を兼ねて、つまみ食い的に読んでおります。
やはり、自分が本当の意味で

2016年5月26日木曜日

病院実習期間中はアドラー心理学に頼りたくなる

ついに今年度最初の病院実習が始まりました。私にとって、病棟はかなり憂鬱な環境です。それは、病棟で実践している「教育」に共感できないから。こちらの

2015年9月12日土曜日

「それって看護の研究なの?」という意味不明な言葉

看護系大学の人の多くは、卒業研究などで苦労している時期かと思います。私は、一応修士課程、今は博士前期課程というのが正式名称でしょうが、を卒業していますが、そのときの勉強が今の私にとって最も有益だったと感じているのが、

2015年7月23日木曜日

アドラー心理学を大学での看護教育に生かすのは困難...

まだまだ不勉強ですが、アドラー心理学を基本とした学生への関わりを大切にしてはいますが、今疑問に感じていることがあります。

「間違い」を指摘するにはどうしたらよいか、です。

教員側として学生に「こうなって欲しい」といったことはたくさんあります。しかし、それが勇気をくじくことにつながらないのか、という側面に注意する必要はあると思われます。だからといって、何も言わないでいると、私のように冷たい言葉をもらうことにもなります。別に、普通に普通に言えばいいのかな?こうした方が良かったんじゃないか?というような言い方で。

常に自分がどうするか、が求められるのがアドラー心理学ですよね。やはり厳しい心理学です。ただ、課題の分離ができれば、学生がどういう学びをするかは学生次第、というように考えてもいいのかもしれません。今の大学教育はしっかり看護師免許をとらせることが求められているので、そういった意味では教育制度自体が課題の分離をできていないのかもしれません。

2015年7月13日月曜日

岸見アドラー心理学は、人を操作するための科学ではない

基本的に、人を操作するものであってはならないのです。岸見先生の本をまた買いました。


嫌われる勇気より、少し具体的に書かれている印象です。この本を少し読んで改めて思ったのは、人を操作するための手法であるべきではない、という点です。あくまで、自分が対人関係から自由になるための手法であるべきだということだと思いました。

子どもと日々生活を共にしていると、生活する上で必要な食事、排泄、清潔に関わる行動を促すのに苦労します。嫌われる勇気を読んで1年くらいが経過しますが、もうすぐ3歳になる息子と、どうしたら対等な関係になれるか...を目標にしていたつもりでしたが、いつの間にか私は、息子をいかに自分の思い通りに動かせるかを考えてしまっていました。できるだけぐずらずに目的の行動に促す、それがうまくいけば「ありがとう」と言っていました。それでは「褒める」と一緒だということに気づいた気がしました。「褒める」とは「自己中心的な行動そのもの」だと思いました。まずは子どもが存在していることそのものに注目し、感謝したい。その上で子どもの選択を見守れる「技術」を私が身につければ良いわけです。その「技術」の選択肢が私は少なすぎるんだと思いました。3歳といえど、「理屈」があった上で自分がこうしたいという表現をしていると思います。その「理屈」を信頼し、見守りたいです。

病棟実習で学生と関わるときも同様です。学生は今までの生きてきた積み重ねを駆使して、常に自分で「選択」して行動しています。それを信頼したいです。私自身、実習病棟で指導を担当いただく看護師に対してのアピールとして学生をきちんと指導しているように見せる「自己中心的な行動」はとりたくないです。患者の生命に関わったり、病棟の業務に支障をきたさないレベルでの線引きは難しいと感じていますが、学生には指導担当看護師や教員に「ウケがいい行動」を促すのではなく、「論理的・科学的・合理的」に考えた上での選択ができるような関わりが、教員に求められているんだと思います。「論理的・科学的・合理的」を「賞罰」を介して伝える必要な皆無です。むしろ、「賞罰」が最も思考を遮断しています。

偉そうに書きましたが、今思うところを整理してみました。

2015年7月8日水曜日

アドラー心理学と看護臨地実習

実習では、というか看護師の仕事というのは、常に減点法なのではということを痛感します。特に実習では、できないことをツッコまれまくりで、自信が持てなくなる学生も少なくありません。「自己受容」がしっかりできていないと、学習に取り組む以前の問題になると思います。「自己受容」、似たような言い方であれば「絶対的自己肯定感」ですね。まずは「自分が存在していることの価値」をしっかり持っていないと、困難な課題に取り組むのにはかなりしんどい思いをすると思います。ぜひ、自信をもってください。...と自分にも言い聞かせる。

2015年7月2日木曜日

「嫌われる勇気」を実践することの苦悩

「嫌われる勇気」では下記のように述べられている。
自らの生について、あなたにできるのは自分の信じる最善の道を選ぶこと

これって、かなりの苦痛を伴うものです。「自分の責任」という言葉が重くのしかかる。「深刻」になってしまうのではないでしょうか。一方で、自分の価値はまず存在していることそれ自体にあるべきという考え方も述べられている。

何をもって「最善」と考えるべきなのか。それが一番問題のかもしれません。「善悪」で捉える必要がないとすれば、では「最善」とは「バランス」でしょうか?

仕事が自分のキャパシティーを超えていたときには、どのように捉えることが「正解」なのでしょうか。「正解」を探そうとすることがすでに「競争」に足を踏み入れていることになるのかもしれません。

競争で消耗しているのは、私自身なのかもしれません。

まずは一歩を踏み出すことでしょうかね。

2015年6月25日木曜日

成長ではなく「表現」を大切にすることは、看護師養成課程にとっても重要だ

久々にイケハヤさん哲学が聞けてよかったです。
「成長する」のではなく、「表現する」を大切にしよう

看護学部だけではないでしょうか、看護師は「成長」を求められます。もう少し正確に表現するならば、「病院のルールを正確に実行していくれる人材となることが成長」ではないでしょうか。少し嫌味がこもっているかもしれませんが。

しかし、病院のルールとは逸脱した、もしくは看護学部&実習生としてのあるべき「理想像」から逸脱した考えを「表現」しようとすることは「成長」とみなされません。

私も、この少ないアクセス数のブログで「表現」できていることは、かなり「自分の人生を生きている感じ」に寄与している気がします。

今の看護学部の教育は「専門職大学」であり、学生にはこちらの価値観を押し付けてしまいます。「正しい(と思われること)の押し売り」です。その価値観の押し付けを日々行われた結果、「正しい」看護師もできあがるかもしれません。でも、その「正しい」看護師は「表現することを失っている」可能性も非常に高いです。「本当に正しいことってなんだろう」と考えることをやめてしまいます。「自分ってダメだけど、自分は正しいことをしているんだ」という気持ちだけで生きて行く。私にとっては苦行そのもの...。週2くらいなら看護師として働けるだろうけど...、現場での実践となるとある種の「鈍感力」がないと働けないですよね。だって、よく考えればそれってよくないかも、みたいなことにも、病院がGOと言えば、そのことに加担することになるわけですから。

時間切れになりました。「表現」したりない。

2015年5月4日月曜日

人としての価値は皆同様である、ということ

私のマイブームです。人としての価値は皆同様だということ。CEOも大統領も赤ちゃんも学生も教員も皆一緒。だから、教員が頑張ってえらそうに教える人を演じる必要もない。大事なのは専門的知識を備えているかだけではなくて、対等に人と関われることにあるんじゃないでしょうか。

もし、学生と対等な関係が築けたとしたら、学びたいと思う学生はより学べるようになるはずです。学びたいと思う人との壁がないからです。聞きたいことが率直に聞ける。そこで教員が自分の知識が絶対正しいと思って話していれば別ですが、お互いに曖昧なところや発展できる内容を議論できれば、それだけで飛躍的に学びが進化すると思います。

看護学部では、看護師養成という大義名分があるために、広く浅い知識の提供になりがちです。あなたはこれがわかってない、それもわかってないという減点法の教育しかできなくて、枠にきちんと収まるような人材育成になっている。違いますよね。これからは時代もどんどん変化していくのに、過去の知識を持った人の知見じゃなくて、自分がこれから看護師として自らを研鑽していくための力が身につけばいいんだと思います。

その自己研鑽能力を阻害する最も大きな要因が、縦社会的な教員と学生の関係です。別に、何を勉強しようが勉強しまいが、人としての価値は皆同じだという想いで関わることができていれば、あなたの弱点はこんなにたくさんあるのよ、という教え方にはならないはずです。学生が日々学べたことを共有したり、学ぼうとしている人を助けたりするだけでいいんだと思います。得意なことを伸ばすことが弱点の補強になることに誰も気づいてない気がしてしまいます。

こんなことを毎日考えられる私は本当に幸せで自由だと思います。思わず一人でにやけてしまうレベルです。もし、学生と教員の両方が対等な人間関係を築けたら、どんどん学生の能力が解放されていく、もしくは充実感を得られていく、そんなのを妄想しています。

大事なことは、対等な人間関係が良い成績の人材を生み出し、臨床で確かな実績を積む人材を育成することにつながるわけではないということです。あくまで、その人本人の幸福につながるというただそれだけのことです。どんなに病棟で使える人材だろうが、使えない人材だろうが、人としての価値は一緒です。人は誰しもが他者貢献感を持つことができる。そう考えると、人間関係や所属の中でなにかしらの貢献が可能です。その貢献の度合いに優劣はない。そしたら、結果なんてどうでもいいことだと思います。

生きてるだけで丸儲け、というさんまさんの名言が頭に浮かびます。

2015年4月29日水曜日

ほぼ同世代の男子看護学生と飲みに行ったときの話

いや〜、楽しかったですよ。30代前半の男3人。自分ばっかり話してしまったので、申し訳ないとは思いましたが...。普段自分が考えていて話せなかったことを8割以上話せて、頭が整理できました。話したかった内容は以下の通り。

  1. 対等な関係で話したい(タメ口が良い)
  2. 対等な関係こそ人の可能性を伸ばすのではないか
  3. 人の価値は生きていることそのものにある
対等な関係で話したい
諸事情があって、最初は2人で話していました。普段は大学で顔を合わせているので、話始めも特に違和感はなかったんですが、私が上の3つのことを考えていることを少しずつ伝えると、だんだん盛り上がってきて(たぶん、私だけではなく。たぶん...)、敬語もなくなり、共感してもらえました。特に、対等な関係で話したいということを私が考えていたことに驚いていたみたいです。
どうしても、立場上上下関係、縦社会になりがちですが、そこを越えられると仲間として、無駄なストレスがなく人間関係が構築できる気がしてます。ただでさえ、一人一人価値観が違うことに対する修正をしながら仕事なりを進めなくてはいけないのに、上下関係などの要素も入ってくれば、そりゃめんどくさいですよ。「上の人だから言えない」「下のあなたに言われたくない」なんてバカバカしいです。
お酒の力も多少かりましたが、ここぞとばかりに、(対等にというより)普通〜〜〜に話しました。自分の話をし過ぎて、みんなの考えていることを最後までちゃんと聞かなかったのが次の飲み会への課題だとは思いましたが、すごく普通に話せました。正直、ちょっとカッコつけたくなる場面もありましたが、ちゃんと受け止めてもらえる、もしダメでも自分の価値が変わるわけじゃない、それは相手が受け入れるかは自分の課題じゃないって信頼して話せたのが良かったです。むしろそのおかげで、普段は聞けない二人の考えを聞けました。

対等な関係こそ人の可能性を伸ばすのではないか
そりゃそうだろ、という感じです。だって、本当は興味あるのに話せなかったりとか、教員が威圧的であればお互いのコミュニケーションを阻害するだけです。そこから何も発展しない。相手の得意なことにフォーカスすれば、それでOK。自然と得意なことが見つかるんじゃないかと思ってます。大学のテストがよくできる、実習で記録がよく書ける、そんな評価基準で人を評価する方がよっぽど可能性をつぶしてますよ。そりゃ上手に書けない人もいるだろうよ。でも他者貢献のためのツールってそれだけじゃないよね。病院に勤めるだけじゃないよね。自分の他者貢献の仕方は自分で編み出せればいいんじゃないかと思いますよ。誰かよりも仕事ができる、あの人よりはマシだからって評価をモチベーションに仕事をするのって最高につまんない。自分はちゃんとこれで他者貢献できてる、まずはそこからで十分じゃね。

人の価値は生きていることそのものにある
みんな対等。大統領も私も同じ人間です。そう考えると、仕事ができないことはダメなことじゃない、ということになる。あくまで自分として、人生の嘘をつくことなく一歩でも踏み出すことが大切じゃないでしょうか。ちょっと時間かかったから、この部分は上の方でも似たようなこと書いたし、割愛です苦笑。

2015年4月15日水曜日

看護大学の教育は病院に就職させることが目的になっている

今年度も始まりました。新入生だったり進級した学生で大学は活気があります。看護師や保健師になろうと思って大学に入学する人が多いのですが、あまり考えられていないのが、「看護師ってどんな仕事なのか」ということ。もっと踏み込んで言うと「看護師になると、どんな気持ちで仕事をすることになるか」ということになると思います。

大きな総合病院で提供されている医療のほとんどは西洋医学です。でも西洋医学もはっきりしていないことはたくさんあるし、西洋医学では解決できない問題(症状)も多い。というか、西洋医学の考え方ってホントに正しいの?などと考える私のような学生がいらっしゃいましたら、ぜひご一報ください。現在ある考え方に疑問を持つことが科学者として、看護師・保健師としての第一歩です。

病院に勤めると、その病院のやり方を「押し付け」られます。間違いありません。その病院の「みんな」はそうやっているので、それを「押し付け」られます。もし、その病院以外は違うやり方だったとしても、内容によりますが、簡単には変えないでしょう。そうです。病院では「科学的根拠」を大事にせず「過去の積み重ね」を大事にします。今までそうやってきたから...とかの理由が「根拠」になってしまうのです。

最近、盛んに看護基礎教育と臨床の格差が広がっていると言われていますが、独り歩きしているのは、病院の方だと思います。患者さんのために看護師になった志の高い方たちは一生懸命だと思います。しかし、その実践する看護の中にどれだけ「本当の自分の考え」を反映できていますか?ルールだから、そう習ったから、今までそうやってきたから。そんな理由で実践していると継続できません。「愛」がこめられないからです。自分の考えをこめられないものに「愛」はこめられないです。

ネガティブな意見ですが、現在の看護大学での教育はただの「洗脳」です。正しいことはこれ、間違っていることはこれ、私たちの大学ではそれをちゃんと教えています。そして人間関係形成能力や主体的学習ができる人材を育てています...。いや、それじゃあ大学ではないですよ。坂爪さんからパクりますが、大学は新しい正解を見つける場所です。自分なりの考えを作り上げる場所です。そのための道しるべは立ててあげた方がいいですが、一方的に正しい正しくないを教えるのは、誰でもできます。正しい(と言われる)知識が知りたければ病院の研修に参加すればいいんです。看護協会とかが盛んに開催していますよ。それを看護師養成課程を持つ施設が囲い込むから看護師が増えない気がします。
「大学」という場で学習することの意味は、その「自由さ」にあると思います。古いですが、反町隆史の「POISON」が頭をよぎります。言いたいことも言えないこんな世の中じゃ。自由に発言できて、自由に批判されて、自由に考えを構築できる。大学はそんな場所であって欲しいし、自分はそういう風に大学で学びたいと思います。

読みにくい文章で本当すみません。

2015年4月5日日曜日

看護大学では講義・演習に「目標」や「目的」を詰め込みすぎて本末転倒になっている

イケハヤさんのブログに影響されましたので、「逃げ腰語尾」を使わずに書いてみたいと思います。

大学の看護教員のほとんどは、熱意があればあるほど、講義や演習に重きを置いている。講義・演習の中で学生に吸収してもらいたいことや伝えたいことをたくさん詰め込む。おそらく、看護師として勤めている人でさえ、講義・演習で展開される知識の広さ(浅さ?)具合に、消化不良を起こす。

基礎教育において学生が身につけるべきことは、以下の3点。

  • 「自分が他者貢献して楽しく生きる方法論」
  • 「科学的・論理的な思考」
  • 「自分に合った健康的な生活」

やれ「看護過程」だの「看護技術」だの「看護の精神」などは、勝手についてくる。正確には、身に着けたいと思えれば自力で習得できる。それを上記の3点がはっきりしないうちからあれもこれも学生に伝えようとしたって、こちらの空回りに終わる。というか、「相手を操作すること」は到底無理です。

我々はあくまで、学生が自力で考えたり行動したりすることを制限せず、ルーブリックなんて曖昧な評価尺度で学生を小さな枠に留めることなく、個々の能力を解放してあげること、自分の得意分野に気づき、それを伸ばせる環境を整えてあげること、しかできない。

話は違うけど、そもそも私は西洋医学に偏った「病院」というシステムや、自分が本当に良いと思う医療に携われないことにも違和感がある。その「病院」に勤めるための「看護師」を養成するなんて、ただの「洗脳」でしかない。既存の間違っていることも考えられる科学的根拠を鵜呑みにして、医療に携わるなんて、全然楽しくないし、ただ既存の知識を得ようとすることを「主体的」とは言えるはずもない。

というわけで、看護の先生は、ただただ今まで自分が積み重ねてきた知識を伝授し、洗脳することだけではなく、一緒にディスカッションすることを取り入れるべきだと思うし、その力は学生に十分ある。自分の知識や考えが「正しい」ということを伝えるのではなく、一緒に「新しい回答」を考えるべきだ。その「新しい回答」を見出す過程こそが「主体的」であり、「科学的・論理的な思考」を修得するために必要なことである。

そのためには、既存の知識を最短ルートで修得してもらう必要がある。懇切丁寧に時間をかけて作成したパワポで、さらに90分座学で講義に時間を投資してるなんてもったいない。21世紀なんですよ?(イケハヤさんの影響)ICTを活用すれば既存の知識を理解することにそれほど時間はかからないと思いますし、いつでも調べられる環境を整えてあげる方がよっぽど良い投資です。

「逃げ腰語尾」を使わないのは、かなり気持ちいいですね。自分の意見を言ってるぞ、という気分になれました。

2015年4月1日水曜日

貨幣経済と評価経済〜看護の世界は評価経済〜



Podcast「学問ノススメ」でこの書籍を紹介した内容を聞き、興味を持ちました。本は読んでいないのですが、Podcastの内容を聞くと、色々共感できるなと思いました。看護の世界は金儲けの世界ではないので、すでに評価経済の装いをまとっていると感じました。

一般的な総合病院に勤める看護師であれば、病棟というユニット(単位)に所属し、仕事に従事するが、そのときに所属部署の「評価」がなければ、快適に生きてはいけない。「(その病棟での)常識」から逸脱した考えや行動をする人はすぐに「仲間」に入れてもらえなくなる、もしくは「派閥」が出来上がる。これは女性に特徴的な部分かもしれません。

岡田さんは今後、世界は評価経済に変化し、貨幣経済が衰退するという考えなのかと思いますが、もし、岡田さんが考える評価経済が上記のような内容であれば、決して賛同はできないなと思いました。おそらく、岡田さんの考える評価経済はもっともっと大きなユニットで考えられているから、自分の好かれるもしくは相性の良い人を見つけ出して、そこで過ごせば良いということなのだと思います。相性の悪い「仲間」もしくは「派閥」とは一緒に過ごさなければいいのだということでしょうね。

確かに、Podcastの中でも、複数の仕事を持つことが得だという考え方が話されていたので、その点に着目して看護師を続ける方がいいのかもしれません。私が現時点で考える、看護師としての理想の働き方を箇条書きにしてみます。職場は「大学」「企業」「病院」の3つになります。
  • 大学で非常勤講師もしくは実習インストラクター(キャリアアドバイザー)、あるいは研究補助として従事
  • 企業で健康相談や個人の健康データを使った管理や調査、研究
  • 病院で若い時夜勤専従などもするが、基本的には外来など
私もこういった看護師の就業場所の知識が乏しいですが、ある程度の知識(学習力)と論理的思考力と看護技術力があれば、この3つをかけもちして年収を確保することは可能ではないかと思います。安定して長く勤めることもできないかもしれませんし、保証もありませんが、自由度は高いかなと思います。

2014年10月30日木曜日

アドラー心理学と看護

アドラー心理学の考え方を看護の現場に持ってくると、どのようなことが起こるのか気になる今日この頃です。

特に、課題の分離と共同体感覚が身につけられた人たちが集まったチームではどのように仕事がされるのだろうか。

看護師の多くは対人関係のストレスによって転職や退職をしていうようなので、すごく気になりました。