広告

ラベル 大学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年10月1日火曜日

数年間仕事でスタンディングデスクを使ったら膝を痛めた

大学でのメインPCはデスクトップで、スタンディングデスクの上に配置しています。

そのため、論文読んだり書いたり、授業や会議の資料作成のときは、基本的に立っています。

サブのMacBookもあるので、疲れたら座って作業することもあります。

立ってる時間と座ってる時間が半々くらいだと思われます。

そんな感じでスタンディングデスクを導入して3年くらい経過したでしょうか。

因果関係は不明ですが、去年の11月ほど前から、右膝が痛くてしゃがめなくなりました。

2017年12月22日金曜日

協奏できている状態とは対立していることをいうのか

理想の生活を追い求めているものの、特に努力せず、日々漫然と過ごしているように感じています。

年々改善はしてきているとは思いますが、この時期は結構仕事が捗らない時期です。

やる気が出ない、幸福感が少ないのは

2017年3月18日土曜日

他者の課題を切り捨て、「人生の嘘」から目を逸らさない

嫌いな人がいます。

正確には、私が望まないことをしようとする人がいます。

つまり、私の課題に踏み込んでこようとしている人です。

だから、私は嫌悪感を抱いているのだと思いました。

しかし、

2015年9月12日土曜日

「それって看護の研究なの?」という意味不明な言葉

看護系大学の人の多くは、卒業研究などで苦労している時期かと思います。私は、一応修士課程、今は博士前期課程というのが正式名称でしょうが、を卒業していますが、そのときの勉強が今の私にとって最も有益だったと感じているのが、

2015年7月23日木曜日

アドラー心理学を大学での看護教育に生かすのは困難...

まだまだ不勉強ですが、アドラー心理学を基本とした学生への関わりを大切にしてはいますが、今疑問に感じていることがあります。

「間違い」を指摘するにはどうしたらよいか、です。

教員側として学生に「こうなって欲しい」といったことはたくさんあります。しかし、それが勇気をくじくことにつながらないのか、という側面に注意する必要はあると思われます。だからといって、何も言わないでいると、私のように冷たい言葉をもらうことにもなります。別に、普通に普通に言えばいいのかな?こうした方が良かったんじゃないか?というような言い方で。

常に自分がどうするか、が求められるのがアドラー心理学ですよね。やはり厳しい心理学です。ただ、課題の分離ができれば、学生がどういう学びをするかは学生次第、というように考えてもいいのかもしれません。今の大学教育はしっかり看護師免許をとらせることが求められているので、そういった意味では教育制度自体が課題の分離をできていないのかもしれません。

2015年7月13日月曜日

岸見アドラー心理学は、人を操作するための科学ではない

基本的に、人を操作するものであってはならないのです。岸見先生の本をまた買いました。


嫌われる勇気より、少し具体的に書かれている印象です。この本を少し読んで改めて思ったのは、人を操作するための手法であるべきではない、という点です。あくまで、自分が対人関係から自由になるための手法であるべきだということだと思いました。

子どもと日々生活を共にしていると、生活する上で必要な食事、排泄、清潔に関わる行動を促すのに苦労します。嫌われる勇気を読んで1年くらいが経過しますが、もうすぐ3歳になる息子と、どうしたら対等な関係になれるか...を目標にしていたつもりでしたが、いつの間にか私は、息子をいかに自分の思い通りに動かせるかを考えてしまっていました。できるだけぐずらずに目的の行動に促す、それがうまくいけば「ありがとう」と言っていました。それでは「褒める」と一緒だということに気づいた気がしました。「褒める」とは「自己中心的な行動そのもの」だと思いました。まずは子どもが存在していることそのものに注目し、感謝したい。その上で子どもの選択を見守れる「技術」を私が身につければ良いわけです。その「技術」の選択肢が私は少なすぎるんだと思いました。3歳といえど、「理屈」があった上で自分がこうしたいという表現をしていると思います。その「理屈」を信頼し、見守りたいです。

病棟実習で学生と関わるときも同様です。学生は今までの生きてきた積み重ねを駆使して、常に自分で「選択」して行動しています。それを信頼したいです。私自身、実習病棟で指導を担当いただく看護師に対してのアピールとして学生をきちんと指導しているように見せる「自己中心的な行動」はとりたくないです。患者の生命に関わったり、病棟の業務に支障をきたさないレベルでの線引きは難しいと感じていますが、学生には指導担当看護師や教員に「ウケがいい行動」を促すのではなく、「論理的・科学的・合理的」に考えた上での選択ができるような関わりが、教員に求められているんだと思います。「論理的・科学的・合理的」を「賞罰」を介して伝える必要な皆無です。むしろ、「賞罰」が最も思考を遮断しています。

偉そうに書きましたが、今思うところを整理してみました。

2015年7月8日水曜日

アドラー心理学と看護臨地実習

実習では、というか看護師の仕事というのは、常に減点法なのではということを痛感します。特に実習では、できないことをツッコまれまくりで、自信が持てなくなる学生も少なくありません。「自己受容」がしっかりできていないと、学習に取り組む以前の問題になると思います。「自己受容」、似たような言い方であれば「絶対的自己肯定感」ですね。まずは「自分が存在していることの価値」をしっかり持っていないと、困難な課題に取り組むのにはかなりしんどい思いをすると思います。ぜひ、自信をもってください。...と自分にも言い聞かせる。

2015年6月25日木曜日

成長ではなく「表現」を大切にすることは、看護師養成課程にとっても重要だ

久々にイケハヤさん哲学が聞けてよかったです。
「成長する」のではなく、「表現する」を大切にしよう

看護学部だけではないでしょうか、看護師は「成長」を求められます。もう少し正確に表現するならば、「病院のルールを正確に実行していくれる人材となることが成長」ではないでしょうか。少し嫌味がこもっているかもしれませんが。

しかし、病院のルールとは逸脱した、もしくは看護学部&実習生としてのあるべき「理想像」から逸脱した考えを「表現」しようとすることは「成長」とみなされません。

私も、この少ないアクセス数のブログで「表現」できていることは、かなり「自分の人生を生きている感じ」に寄与している気がします。

今の看護学部の教育は「専門職大学」であり、学生にはこちらの価値観を押し付けてしまいます。「正しい(と思われること)の押し売り」です。その価値観の押し付けを日々行われた結果、「正しい」看護師もできあがるかもしれません。でも、その「正しい」看護師は「表現することを失っている」可能性も非常に高いです。「本当に正しいことってなんだろう」と考えることをやめてしまいます。「自分ってダメだけど、自分は正しいことをしているんだ」という気持ちだけで生きて行く。私にとっては苦行そのもの...。週2くらいなら看護師として働けるだろうけど...、現場での実践となるとある種の「鈍感力」がないと働けないですよね。だって、よく考えればそれってよくないかも、みたいなことにも、病院がGOと言えば、そのことに加担することになるわけですから。

時間切れになりました。「表現」したりない。

2015年6月7日日曜日

対等な人間関係を目指して接していると、見下す学生がいる...

これ、辛いものです。ある程度はしょうがないと思っていましたが、実習など、接する機会が増えると、どうしても辛くなる。

最初、学生からバカにされたときの今の私の心境は、まだ対等な関係が築けていないことの証拠なのかも、などと考えていました。でも、これはこちらが対等な関係を築けていたとしても、相手が対等と感じていない場合に生じることなのでは、と思うようになりました。

そのような接し方になる学生に対しては、ある程度距離を置こうと感じています。ちょっと消極的な考え方ですが、課題の分離を考える上では、大切な行動なのだと思うようにしています。

すべての学生と良い人間関係を築こうとする私の「執着」が生んだ苦しみを紹介してみました。

2015年4月29日水曜日

ほぼ同世代の男子看護学生と飲みに行ったときの話

いや〜、楽しかったですよ。30代前半の男3人。自分ばっかり話してしまったので、申し訳ないとは思いましたが...。普段自分が考えていて話せなかったことを8割以上話せて、頭が整理できました。話したかった内容は以下の通り。

  1. 対等な関係で話したい(タメ口が良い)
  2. 対等な関係こそ人の可能性を伸ばすのではないか
  3. 人の価値は生きていることそのものにある
対等な関係で話したい
諸事情があって、最初は2人で話していました。普段は大学で顔を合わせているので、話始めも特に違和感はなかったんですが、私が上の3つのことを考えていることを少しずつ伝えると、だんだん盛り上がってきて(たぶん、私だけではなく。たぶん...)、敬語もなくなり、共感してもらえました。特に、対等な関係で話したいということを私が考えていたことに驚いていたみたいです。
どうしても、立場上上下関係、縦社会になりがちですが、そこを越えられると仲間として、無駄なストレスがなく人間関係が構築できる気がしてます。ただでさえ、一人一人価値観が違うことに対する修正をしながら仕事なりを進めなくてはいけないのに、上下関係などの要素も入ってくれば、そりゃめんどくさいですよ。「上の人だから言えない」「下のあなたに言われたくない」なんてバカバカしいです。
お酒の力も多少かりましたが、ここぞとばかりに、(対等にというより)普通〜〜〜に話しました。自分の話をし過ぎて、みんなの考えていることを最後までちゃんと聞かなかったのが次の飲み会への課題だとは思いましたが、すごく普通に話せました。正直、ちょっとカッコつけたくなる場面もありましたが、ちゃんと受け止めてもらえる、もしダメでも自分の価値が変わるわけじゃない、それは相手が受け入れるかは自分の課題じゃないって信頼して話せたのが良かったです。むしろそのおかげで、普段は聞けない二人の考えを聞けました。

対等な関係こそ人の可能性を伸ばすのではないか
そりゃそうだろ、という感じです。だって、本当は興味あるのに話せなかったりとか、教員が威圧的であればお互いのコミュニケーションを阻害するだけです。そこから何も発展しない。相手の得意なことにフォーカスすれば、それでOK。自然と得意なことが見つかるんじゃないかと思ってます。大学のテストがよくできる、実習で記録がよく書ける、そんな評価基準で人を評価する方がよっぽど可能性をつぶしてますよ。そりゃ上手に書けない人もいるだろうよ。でも他者貢献のためのツールってそれだけじゃないよね。病院に勤めるだけじゃないよね。自分の他者貢献の仕方は自分で編み出せればいいんじゃないかと思いますよ。誰かよりも仕事ができる、あの人よりはマシだからって評価をモチベーションに仕事をするのって最高につまんない。自分はちゃんとこれで他者貢献できてる、まずはそこからで十分じゃね。

人の価値は生きていることそのものにある
みんな対等。大統領も私も同じ人間です。そう考えると、仕事ができないことはダメなことじゃない、ということになる。あくまで自分として、人生の嘘をつくことなく一歩でも踏み出すことが大切じゃないでしょうか。ちょっと時間かかったから、この部分は上の方でも似たようなこと書いたし、割愛です苦笑。

2015年4月18日土曜日

人と対等であるということ

職位が少し上がってから仕事の内容が変わり、簡単に言えば、より教員らしい仕事になりました。しかし、自分の中に芽生えてきたのは、微かにしかないはずの自分の影響力に執着する気持ちです。

自分の判断でできる仕事が増えたことは悪いことではないと思いますが、その増えた仕事に比例して周囲の人に対する影響力もデカくなる。正確には、デカくなったと感じている、ですね。その影響力増大感覚(?)は麻薬のような(やったことないけど)感覚な気がする。自分の強さで物事が動かせている感覚は、病み付きになるんだと思う。しかし、それと同時に、その気持ち良さに執着し、固執し、それがないと不安にさえなってしまう感覚になりそうだった。だった、ではなくなる要素を今でももっていると思う。

たかが助教に上がったくらいで、そうなるんだから、我ながらだいぶポジティブ(?)だなと思うけど、自分の影響力増大感覚に関連した高揚感は無用だと実感しています。その高揚感は大切なものをどんどん奪う。人と対等で、信頼していてはじめてできる他者貢献感もなくなるだろうし、生きているだけで有益である自分の存在を受容できなくなるでしょう。

わかりにくハナシかもしれないけど、自分の子どもにもいつかその感覚に気づいて、他者貢献感を維持できる人になって欲しいなって思った。

2015年4月15日水曜日

看護大学の教育は病院に就職させることが目的になっている

今年度も始まりました。新入生だったり進級した学生で大学は活気があります。看護師や保健師になろうと思って大学に入学する人が多いのですが、あまり考えられていないのが、「看護師ってどんな仕事なのか」ということ。もっと踏み込んで言うと「看護師になると、どんな気持ちで仕事をすることになるか」ということになると思います。

大きな総合病院で提供されている医療のほとんどは西洋医学です。でも西洋医学もはっきりしていないことはたくさんあるし、西洋医学では解決できない問題(症状)も多い。というか、西洋医学の考え方ってホントに正しいの?などと考える私のような学生がいらっしゃいましたら、ぜひご一報ください。現在ある考え方に疑問を持つことが科学者として、看護師・保健師としての第一歩です。

病院に勤めると、その病院のやり方を「押し付け」られます。間違いありません。その病院の「みんな」はそうやっているので、それを「押し付け」られます。もし、その病院以外は違うやり方だったとしても、内容によりますが、簡単には変えないでしょう。そうです。病院では「科学的根拠」を大事にせず「過去の積み重ね」を大事にします。今までそうやってきたから...とかの理由が「根拠」になってしまうのです。

最近、盛んに看護基礎教育と臨床の格差が広がっていると言われていますが、独り歩きしているのは、病院の方だと思います。患者さんのために看護師になった志の高い方たちは一生懸命だと思います。しかし、その実践する看護の中にどれだけ「本当の自分の考え」を反映できていますか?ルールだから、そう習ったから、今までそうやってきたから。そんな理由で実践していると継続できません。「愛」がこめられないからです。自分の考えをこめられないものに「愛」はこめられないです。

ネガティブな意見ですが、現在の看護大学での教育はただの「洗脳」です。正しいことはこれ、間違っていることはこれ、私たちの大学ではそれをちゃんと教えています。そして人間関係形成能力や主体的学習ができる人材を育てています...。いや、それじゃあ大学ではないですよ。坂爪さんからパクりますが、大学は新しい正解を見つける場所です。自分なりの考えを作り上げる場所です。そのための道しるべは立ててあげた方がいいですが、一方的に正しい正しくないを教えるのは、誰でもできます。正しい(と言われる)知識が知りたければ病院の研修に参加すればいいんです。看護協会とかが盛んに開催していますよ。それを看護師養成課程を持つ施設が囲い込むから看護師が増えない気がします。
「大学」という場で学習することの意味は、その「自由さ」にあると思います。古いですが、反町隆史の「POISON」が頭をよぎります。言いたいことも言えないこんな世の中じゃ。自由に発言できて、自由に批判されて、自由に考えを構築できる。大学はそんな場所であって欲しいし、自分はそういう風に大学で学びたいと思います。

読みにくい文章で本当すみません。

2015年4月5日日曜日

看護大学では講義・演習に「目標」や「目的」を詰め込みすぎて本末転倒になっている

イケハヤさんのブログに影響されましたので、「逃げ腰語尾」を使わずに書いてみたいと思います。

大学の看護教員のほとんどは、熱意があればあるほど、講義や演習に重きを置いている。講義・演習の中で学生に吸収してもらいたいことや伝えたいことをたくさん詰め込む。おそらく、看護師として勤めている人でさえ、講義・演習で展開される知識の広さ(浅さ?)具合に、消化不良を起こす。

基礎教育において学生が身につけるべきことは、以下の3点。

  • 「自分が他者貢献して楽しく生きる方法論」
  • 「科学的・論理的な思考」
  • 「自分に合った健康的な生活」

やれ「看護過程」だの「看護技術」だの「看護の精神」などは、勝手についてくる。正確には、身に着けたいと思えれば自力で習得できる。それを上記の3点がはっきりしないうちからあれもこれも学生に伝えようとしたって、こちらの空回りに終わる。というか、「相手を操作すること」は到底無理です。

我々はあくまで、学生が自力で考えたり行動したりすることを制限せず、ルーブリックなんて曖昧な評価尺度で学生を小さな枠に留めることなく、個々の能力を解放してあげること、自分の得意分野に気づき、それを伸ばせる環境を整えてあげること、しかできない。

話は違うけど、そもそも私は西洋医学に偏った「病院」というシステムや、自分が本当に良いと思う医療に携われないことにも違和感がある。その「病院」に勤めるための「看護師」を養成するなんて、ただの「洗脳」でしかない。既存の間違っていることも考えられる科学的根拠を鵜呑みにして、医療に携わるなんて、全然楽しくないし、ただ既存の知識を得ようとすることを「主体的」とは言えるはずもない。

というわけで、看護の先生は、ただただ今まで自分が積み重ねてきた知識を伝授し、洗脳することだけではなく、一緒にディスカッションすることを取り入れるべきだと思うし、その力は学生に十分ある。自分の知識や考えが「正しい」ということを伝えるのではなく、一緒に「新しい回答」を考えるべきだ。その「新しい回答」を見出す過程こそが「主体的」であり、「科学的・論理的な思考」を修得するために必要なことである。

そのためには、既存の知識を最短ルートで修得してもらう必要がある。懇切丁寧に時間をかけて作成したパワポで、さらに90分座学で講義に時間を投資してるなんてもったいない。21世紀なんですよ?(イケハヤさんの影響)ICTを活用すれば既存の知識を理解することにそれほど時間はかからないと思いますし、いつでも調べられる環境を整えてあげる方がよっぽど良い投資です。

「逃げ腰語尾」を使わないのは、かなり気持ちいいですね。自分の意見を言ってるぞ、という気分になれました。

2015年4月1日水曜日

貨幣経済と評価経済〜看護の世界は評価経済〜



Podcast「学問ノススメ」でこの書籍を紹介した内容を聞き、興味を持ちました。本は読んでいないのですが、Podcastの内容を聞くと、色々共感できるなと思いました。看護の世界は金儲けの世界ではないので、すでに評価経済の装いをまとっていると感じました。

一般的な総合病院に勤める看護師であれば、病棟というユニット(単位)に所属し、仕事に従事するが、そのときに所属部署の「評価」がなければ、快適に生きてはいけない。「(その病棟での)常識」から逸脱した考えや行動をする人はすぐに「仲間」に入れてもらえなくなる、もしくは「派閥」が出来上がる。これは女性に特徴的な部分かもしれません。

岡田さんは今後、世界は評価経済に変化し、貨幣経済が衰退するという考えなのかと思いますが、もし、岡田さんが考える評価経済が上記のような内容であれば、決して賛同はできないなと思いました。おそらく、岡田さんの考える評価経済はもっともっと大きなユニットで考えられているから、自分の好かれるもしくは相性の良い人を見つけ出して、そこで過ごせば良いということなのだと思います。相性の悪い「仲間」もしくは「派閥」とは一緒に過ごさなければいいのだということでしょうね。

確かに、Podcastの中でも、複数の仕事を持つことが得だという考え方が話されていたので、その点に着目して看護師を続ける方がいいのかもしれません。私が現時点で考える、看護師としての理想の働き方を箇条書きにしてみます。職場は「大学」「企業」「病院」の3つになります。
  • 大学で非常勤講師もしくは実習インストラクター(キャリアアドバイザー)、あるいは研究補助として従事
  • 企業で健康相談や個人の健康データを使った管理や調査、研究
  • 病院で若い時夜勤専従などもするが、基本的には外来など
私もこういった看護師の就業場所の知識が乏しいですが、ある程度の知識(学習力)と論理的思考力と看護技術力があれば、この3つをかけもちして年収を確保することは可能ではないかと思います。安定して長く勤めることもできないかもしれませんし、保証もありませんが、自由度は高いかなと思います。

2015年3月30日月曜日

看護学学習中の学生が自分の能力を最大限に解放するためには何が必要? Part 1

大学は教える場ではなく、考える場だと思います。自分で自分なりの答えを導き出す過程に価値があり、その過程がトレーニングであるという考え方です。少なくとも、私のいる大学ではその要素が少ない。学生は教えてもらおうとしてるし、教員は教えようとしている場面が多い。おそらく、20年前よりは、教える教えられる関係が軽減したと思うけど、まだまだ「教員は偉い人、学生は教わる人」みたいな環境です。

私は、自分なんかよりずっと発想力の豊かでIQの高い学生がどんなアイディアを持っているんだろう、という考えがあります。学生が持つその力を何の遠慮もなく解放できたら...と思うとすごくワクワクします。ルーブリックなんて、学生の可能性を潰すようなものにしか感じられない...。評価表で、自分の悪いところを明確にして、自分の弱点ばかり見せられても、自分の得意なところは見えてこないでしょう。教員側の自己満足でしょ。

では、大学のカリキュラムにおいて、どんな方法が学生の能力を最大限に解放できるのか。そのヒントは「レール」と「脱線」です。

まず、「レール」について。テーマ、と言ってもいいかもしれません。すべてが自由になると、逆にどうしていいかわからなくなる感じがあると思います。いきなり1000億円もらってもどうしていいかわからない、みたいな?なので、ざっくりとこれについて話します。みたいな内容があれば良い。例えば、「人間における脱水とは?」みたいな。もちろん、脱水を語るためには基本的な知識が必要なので、そこは事前学習が必要です。その部分が「レール」です。テーマに合った知識をある程度自分で説明できるくらいまでに構築しておく。

続きは次回。

2015年3月29日日曜日

学士(看護学)を取得した看護師と、そうではない看護師に違いはあるか? Part 2

なぜ、自分の適正に合った職場であったとしても、つまらなくなり、続かなくなるか。もちろん、一生続けたいと人も必ずいると思います。その人はその職場に「貢献感」を見出せたから続けたいと思うし、続けられたのだと思います。しかし「貢献感」だけで言えば、続けられなかった人も大なり小なり得られていたと思われます。・・・そうです、続けられるか否かの大きな違いは「楽しい」か否かに他ならないと思います。「自分にとって楽しいか否か」です。

「仕事の報酬は仕事」という言葉があるようですが、これは正にそれを言い当ててると思います。言うなれば、「仕事」という言葉が適切ではなく、「楽しさ」にしてもいいかもしれません。あまりかっこいい言葉ではないけど。「楽しさの報酬は楽しさ」。当たり前だろって感じになっちゃったけど。要は、仕事は義務ではなく自分を楽しませるためにあるということを前提にして「仕事」を捉えてみると、もはや仕事なんだから楽しくてやってるんだかわかんない、みたいなことになる。22世紀の「仕事」の概念はそうあってほしい。

看護師の離職率が高かったけど、ちょっと低くなった等々語るよりも、もっと「ヒト」が働たくなるような医療現場を作るために試行錯誤する方がベターなんじゃないかなと思ってしまう。医療っていう業界?がとても大きな影響力を持つようになって、医師や看護師は日々プロトコルに従った医療を提供していて、その過剰なサービスを提供するのために力尽き、考える力が残っていない。「ホントにこの医療って必要なの?」と。いや、正確には、考えているけど行動する時間が残ってない。割と安定した給料が提供されているのに、それを壊してまでそんなギャンブルみたいな行動をする価値がない。

自分を肯定したいだけなのかもしれないけど、私は「ホントは何が必要なんだろう?」って常に考えられる人でありたいし、ほんの少しでも良いから行動できる人になりたいと思っているつもりです。
話が長くなりましたが、学士(看護学)を取得した看護師は、常に批判的思考でいれて且つその思考に対して行動できる人であって欲しい、と言いたかっただけです。そうではない看護師との違いは、その批判的思考に伴う行動、にあるべきなんじゃないかなと思いました。


仕事をしないことに対する言い訳になりますが、私は仕事を多少おろそかにしてでも、批判的思考と行動に費やす時間を確保したいなと思っています。それが私の「楽しさ」になっています。

2015年3月28日土曜日

学士(看護学)を取得した看護師と、そうではない看護師に違いはあるか? Part 1

要は看護系大学を卒業したか否か。言葉にすればたったそれだけだし、現状、そんなに大きな違いはないと思っています。臨床現場では、大卒は「使えない」「頭でっかち」と評価されているという噂はあるみたいだけど、それも結局は個人差の問題。病院で看護師として働き続けるのってかなり広く浅く色々な能力が必要だと思いますし、仕事に個性が出やすい職種と感じます。

おそらく、たくさんお金をかけて適切な人材を確保して分析すれば、先天的にどんな能力が高ければ、「使える」看護師なのかを判断できると思います。その「ふるい」にかけて、あなたはこんな能力が高いから呼吸器内科病棟、あなたはこんな能力が高いから循環器外科病棟、なんていうこともできちゃうと思います。でもそれって、動かされてる方は「貢献感を持てない」と思います。

おそらく、その「ふるい」のおかげで「楽」にはなると思います。あくまで手堅い職業として看護師を選択した人にとっては、自分の能力に適した教育を受けて、自分に見合った病棟に配属されて、エスカレーター式に進める。まさに「適材適所」と言えなくもない。意外に、そんな教育を受けられることを望んでいる高校生や中学生は多い気がします。苦しみが最低限で、安定した収入が得られる職業に就けるし。

でも、きっとそうして就いた仕事は、つまらなくなるし、継続できない。その理由は次回。

2015年3月18日水曜日

「自分が正しい」と思うことについて Part 2

自分が変な新興宗教みたいな考えに向かわなかったのは、アドラー心理学のおかげです。正確には岸見先生と古賀さんのおかげです。「嫌われる勇気」を読んでいなかったら、読んでいたとしてもアドラーの考えに賛同できていなかったら、「着想」を達成していたとしても、決して豊か人生ではなかったと思います。

「嫌われる勇気」の中で、このような一節があります。
ありのままのわが子を誰とも比べることなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはずです。
つまり、「ここに存在しているだけで、価値がある」ということです。「人類皆平等」とはちょっと違う意味なんだと思いますが、内閣総理大臣と生活保護を受ける人との間に、人としての大きな価値の差はないんじゃないか、という考え方です。もちろん、大きな影響力を持っている内閣総理大臣は「政治」というその中で重要な役割を果たしているんだと思います。しかし、内閣総理大臣という「役割」自体はその人以外も遂行可能なものです。 むしろ、他の人もできなければ成り立たない制度ですよね。でも、その内閣総理大臣をしていた「人物」に変わりはいない。家族がいたかもしれないし、家族よりも大切な友人がいたかもしれないし、飼い犬に最も頼りにされていたかもしれないし、その人のブログが誰かに頼りにされていたかもしれない。

考えてみると、至極真っ当なお話。社会的な「役割」が違うだけであって、皆同じ人間。つまり、学生だろうが教員だろうが、目標さえ共通の認識が持てていれば、学生が教員に新しいことを教えたっていい。ちょっと論理の飛躍かもしれませんが...。学生も教員も「学ぶ」という意味においては「仲間」です。ただ、ベースとなっている知識が違うだけ。教員だから「正しい」知識を持っているわけではない。大学での講義は、あくまでその教員がもつ主観的な理解において導き出した知見を学生が聞いた、というだけのこと。そこからどのような理解なり発展をさせるかは個々に委ねられていると思います。だから大学は面白い!と私は思っていました。

そうなんです。「正しい」っていう言葉に意味なんかないんじゃないか、というのが私の意見です。私の少ない経験上のことですが、社会的地位の高い人の多くは、「自分は正しいことをしている」という感覚が強いです。それだけ自分の考えや行動に有益さを感じている証拠なので、それ自体は問題ではないのですが、その「正しさ」をその他大勢にも求めようとしたその瞬間から、その「正しい」はまったく有益な意味を持たなくなります。アドラー心理学的には、他者の課題に土足で踏み入っていることになるからとなると思います。また、私は自分の視界の狭窄につながる、と思っています。自分が正しいと思って相手を論破しようとしているときは、すでに相手の立場に立とうとする意識がなくなっているからです。なので、物事もしくは論理を推敲できなくなっています。

今回私が最終的に言いたかったことは、「自分が正しいと思う必要なんてない。ワクワクすることはなんだろうって考えることが人生を豊かにする」です。

2015年1月24日土曜日

1日1食継続して15日くらい経過


地味に15日以上経過していたんですね。びっくり。そんなに頑張ってる感じもなくなってきたし、昼飯にすりゴマ味噌汁が定着してきたし、「俺昼飯食ってな〜い」っていう意識過剰なところも薄れてきたし、考える時間が増えた感じです。

ただ、残念なのは「物忘れ」的なのが増えてきた。柴田さんもそうだったみたいだけど、記憶を思い出すのが難しいことが増えてきましたね。居酒屋を予約した時間を忘れたり、1カ月前に予約したけど予約したかどうかを忘れたり...元々記憶力は非常に悪い方だったので、対策は立てられますが、ちょっと不安ですね...昨日息子が食べたものを保育園の連絡ノートに書こうとしても、思い出せない...仕事に影響しないようにリマインダーへのメモはより意識していかないとヤバいです。

2015年1月15日木曜日

「成長」ではなく「変化」が大切だと思う

「成長」ではなく「変化」こそが楽しい by イケダハヤトさん

以下、引用

「成長」ではなく「変化」こそが楽しい

昔は「成長」が楽しかったんですよ。ゲームのレベル上げとか大好きで、レベル50もあればラスボスを倒せるのに、なぜかレベル99まで上げてラスボスをボコボコにしてました。ブログのアクセスも同じで、徐々に増えていくのが楽しかったんですよね。
ここ最近は、それよりも「変化」が楽しくなってきました。ブログでいえば、単純にアクセスや収益を伸ばすことよりも、作風を変えることの方が、ワクワク感があるんです。作風の変化によってアクセスが下がったとしても、なんら問題はありません。昔はアクセスの減少が怖かったんですけどね。
変化を楽しめるようになると、人間は強いなぁ、と感じています。成長は上にしか行けませんが、変化は横にも下にも行くことができます。変化を楽しめる人間は、スランプですらも楽しめるわけです。これ最強ですよね。

大学教員としての「成長」と、私にとっての「変化」

私は助手で、教員としての経験は少ないし、教員として任せられていることも少ないです。私が教員として「成長」するとすれば、職位を上げ、講義するようになったり研究業績を積み上げたりすることだと思います。
しかし、それだけだとつまらない。何をもって「成長」とするかを考えれば考えるほどつまらない感じがしてくる。「成長」って足りないものを見つけて、不足部分を補おうとする行動と捉えてしまっているせいもあると思いますが、それって非常にネガティブな出発点じゃないですか。優越コンプレックスに入らないように注意しているつもりですが、いまの自分がそんなにできないダメなやつだ、ともあまり思いたくない。

だから私は「変化」こそ楽しいんだと思います。イケダ先生と視点が違うかもしれませんが、「変化」は昔の自分と比べて変わること。別に優劣とか上下とかない。だから出発点もポジティブな感じがします。「あなた、成長したね」とか言われるとすごく違和感がある。そのように言う人は自分があなたより上の立場にいると誤解している点です。ま、自分で言わないようにしていますが、つい学生に言ってしまうこともある...けど、自分の思考では誰が偉くて誰が偉くないという思考から早く脱却したいです。

私が「変化」するために大切にしていること

自分はただプライドが高くて、ただただ今の自分を否定されることだけが嫌な30代男性に思われるのは辛い。たしかに、ぬるま湯に浸かっていたいという気持ちがあるのでなんとも言えないのですが、少しでも「変化」しようと日々工夫していることがいくつかあります。

「変化」があることを楽しむ
ただ漫然と大学に勤めていても色々な「変化」があります。新しいシステムが導入されたり、文科相からの方針が発表されたりで、大学内の業務が変わったり増えたりします。楽しいものも楽しくないものもありますが、私にとっては「変わる」ということには常にポジティブでいられている気がします。変わることって楽しいですよね。ダメでも良くても次の一歩に踏み込んでいる気がしてます。

本を読む
これは太古の昔から言われていることですが、やっぱり、違う人の考え方をいつどこにいても学ぶことができるというのは非常に有益ですよね。一冊一冊をじっくり読むより、目次などから自分の興味があるキーワードを拾って読むのが好きです。自分の常識が崩される感覚がたまりません。

直感に従う
よーく考えてしまうと、考えているうちに時間が経ってしまい、何もしないで終わってしまう。直感が舞い降りてきたら(?)とにかく誰かに話してみたり行動してみたりするようにしています。しかし、私はまだこの「直感に従う」というのはあくまで常識的な範囲にとどまっている気がしています。ある種「チャレンジする」ということにビビらず行動できるようになりたいなと思う今日この頃です。


どちらにしても、私は恵まれた環境にいますね。
感謝感謝。