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2015年1月22日木曜日

嫌われる勇気とは、自分を受容するということ?

昨年4月に「嫌われる勇気」に出会ってもうすぐ1年...日々の思考の源はこの本の考え方にある気がしています。「この言葉は相手の勇気をくじいていないか」「自分のこの考え方は正しいのだろうか...目標とすべき社会との調和することにつながっているのだろうか」「嫌いな人を私の仲間であると思えない...どうしたらいいんだろう」などと日々考えるようにはなりました。「考えるようになった」だけで「行動は変わっていない」のかもしれません。ただ、自分が今までこだわってきたと思われる「勝敗思考」がいかにダメなことなのかを理解できて、日々の判断を勝敗の基づく考え方でしていない場面が増えてきているのは収穫なのかなと思います。

でも、やっぱり哲人のような腹が据わった感じにはなかなかなれない。自分をよりよくしたいという気持ちとそれを行動に起こせない自分の葛藤が強すぎる。「これでいいや」という気持ちと「頑張ろう」という気持ちを同居させられていない。自分自身を勇気づけられていない。この葛藤というか劣等感みたいな状況は正常なのだろうか。

私の考え方では、色んなことがどうでもよくなる気がしている。「何か人類にとって有益なこと」をしようという気持ちで日々の業務やすべきことを考えると、「別にやろうがやるまいが大きく影響はない」という結論に至ってしまう。じゃあ何のためにやるのか。そこは何かにこだわらなくてはいけないのかもしれない。「他者貢献をするんだ」とか「自分のワクワクを満たすため」とか。幸福になろうとすることにすがる(こだわる)とあまり良いことがないのかもしれない。しかし、何か芯になるものがないと、あっちいったりこっちいったりで芯がない。じゃあ自分の芯になるものは何かと考えると、バカみたいな結論だが、「好きな人と美味しい飯と酒を囲むこと」になった。これが自分のこだわっているもの。うまい飯を食うことをどうでもいいと思うことは、物心ついたときからほぼないし、これからも絶対になくならない。
本田健さんの書籍で、「飯を食うということは生理的欲求であって、ワイフワークにすべきではない」的なことが書かれていて、軽くショックだったのですが、やはり「好きな人と美味い飯と酒を囲むこと」がなくなることを想像しただけでゾッとする...私はそこにこだわって生きてもいいのかもしれないと思った。それを軸にして「社会との調和」を保てるのかなと思う。

我ながらひどく支離滅裂な文章だな...頭に浮かんだ言葉を記述するとこうなる。

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