久しぶりに岸見アドラー心理学の投稿です。
とある相談に対して、岸見一郎先生が回答しています。
いわゆる、職場でうまくいっていない人の相談です。
仕事で成果が出せず、貢献感を失い、つまりは勇気を失っていると状態ではないかと推察されます。
これに対して岸見一郎先生は、
まずは、仕事に対して自分なりに取り組んでいることに対する価値に気がつく必要があります。
もちろん、「誰か」と比べれば本当にダメなのかもしれません。
本当にダメかどうかなんて、厳密にはわかりません。
誰かの役に立っているかどうかというのは、無数の視点があります。
その無数の視点での評価を一律に同じ基準で行うことは不可能と思います。
大切なのは優越性の追求が実践できているかどうかです。
自立とは、自分の価値を自分で決められることです。
価値とは、自分がどう判断するかだけが全てではないでしょうか。
会社から見れば利益を上げてくれる人の方が価値は高いと思うのかもしれません。
しかし、アドラーは、より大きな共同体の声を聞くことの大切さも語っていると思います。
まずは、会社以外でも良いと思うので、自分が貢献していることを一つ一つ、自分で認めていくことが大切なのかもしれません。
手軽なところで言えば、「親切」があるのではないでしょうか。
電車で席を譲る、道を譲る、ゴミを拾う...
ちょっとした親切が、自分の貢献感を取り戻すきっかけになるかもしれません。
そして、親切は身体にも良いです。
本来、価値は行為ではなく、その存在そのものにあるとアドラーは言います。
なぜ存在そのものに価値があると言えるのでしょうか?
それは、人が常に共同体の中にいるから、と言えるでしょう。
◯◯市に住民票がある人は、市民としての価値がある。
もっと身近なところで言えば、「家族」でしょうか。
誰とも何の関係を持たずに生きることは不可能です。
ホームレスだって、誰かとの関係の中にいるはずです。
その存在には、誰かにとって価値があるはずです。
ちなみに、私にとっても、この相談を投稿してくれた人が、かけがいのない存在(と言えば大げさですが)になりました。
行為の価値も含みますが、こういう風に悩んでいることを共有できて、アドラー心理学の学び、さらに自分だけではないという精神的な安心も得られました。
人は、必ず誰かに貢献している、ということです。
岸見先生は、本人がもつ価値について触れる以外にも、人間本来の「優越性の追求」に対しても言及しています。
もし、本当に仕事を改善することを目標にするのであれば、その問題点を一つ一つゆっくりでも良いから、前の自分よりも一歩前に進む必要があります。
正確に言うと、勇気を持てていれば、一歩前に進みたくなるはずです。
難しいと思うことで、行動パターンを変えることから前に進めなくなっています。
本人の気力でも、素質でも、技術が足りないわけでもない。
ただ、勇気が足りないだけです。
勇気が足りなくて、前に進めていません。
まずは、今の自分を受容して、確実にできることを実践していく。
そうすれば、勇気を取り戻しつつ、最終的な目標にも少しずつ近づいていける。
自分もできてないなと、自分にも言い聞かせるつもりで、岸見先生の回答に補足説明をしてみました。
私も今まさに、仕事のミスや未熟さが露呈し、勇気を持てていなかったので、今回の相談者さんには感謝です。
自分が価値のあるものだと思って取り組んでいることと、組織から求められていること、メンバーから期待されていること、相手によって自分への評価は違うんだと思います。
課題の分離ですね。相手の評価は関係ない。自分が価値のあるものだと思ったものを取り組めば良い。
ここで大切なのは、自分が価値あると思って取り組んでいるもので、「価値がある」という気持ちの「目的」ではないかと思います。
例えば、今私がこうやってブログを書いている時間が、人生の嘘かどうか、ということです。
私は、この記事を書くのことで、癒しが得られ、さらに今後の人生を豊かにする一助になると思っています。
しかし、私が本来取り組むべき、と思われること、は組織やメンバーから期待されていることなのかもしれません。
仕事に使う資料を整理するとか、ブラッシュアップするとか、成果を上げるためのプロトコルを作成するとか、仕事に専念しようと思えば、いくらでも取り組むべきことが出てきます。
先ほどの回答でも「目標」と書かれていましたが、本当にその「取り組むべきこと」が自分の「目標」とすべきものなのか、ということです。
自分の人生は、誰も代わってくれません。
自分で決めていいんです。
私は、今日も意味がないと評価されるであろうことに取り組んでいます。
それはもしかしたら、私の人生の嘘なのかもしれません。
それは自己点検が絶対に必要です。
ですが、その人生の嘘も、死ぬ前日に気がつけば良いので、今は自分を信じて自分なりに目の前のことと向き合っていこうと思います。
あくまで、主導権は自分です。
とある相談に対して、岸見一郎先生が回答しています。
いわゆる、職場でうまくいっていない人の相談です。
仕事で成果が出せず、貢献感を失い、つまりは勇気を失っていると状態ではないかと推察されます。
これに対して岸見一郎先生は、
仕事をする時に誰もが志を持って一生懸命頑張らなければならないとは私は思いません。やる気はあっても困りませんが、必要以上のやる気はいりません。 そこそこ勤勉で、よほどの理由がなければ出勤する。昇進することを目指さず、休みの日がくることを楽しみにする…やる気に満ち溢れた職場であっても、皆と同じように働かなければならないわけではありません。いろいろな働き方があっていいのです。と言っています。
まずは、仕事に対して自分なりに取り組んでいることに対する価値に気がつく必要があります。
もちろん、「誰か」と比べれば本当にダメなのかもしれません。
本当にダメかどうかなんて、厳密にはわかりません。
誰かの役に立っているかどうかというのは、無数の視点があります。
その無数の視点での評価を一律に同じ基準で行うことは不可能と思います。
大切なのは優越性の追求が実践できているかどうかです。
自立とは、自分の価値を自分で決められることです。
価値とは、自分がどう判断するかだけが全てではないでしょうか。
会社から見れば利益を上げてくれる人の方が価値は高いと思うのかもしれません。
しかし、アドラーは、より大きな共同体の声を聞くことの大切さも語っていると思います。
まずは、会社以外でも良いと思うので、自分が貢献していることを一つ一つ、自分で認めていくことが大切なのかもしれません。
手軽なところで言えば、「親切」があるのではないでしょうか。
電車で席を譲る、道を譲る、ゴミを拾う...
ちょっとした親切が、自分の貢献感を取り戻すきっかけになるかもしれません。
そして、親切は身体にも良いです。
本来、価値は行為ではなく、その存在そのものにあるとアドラーは言います。
なぜ存在そのものに価値があると言えるのでしょうか?
それは、人が常に共同体の中にいるから、と言えるでしょう。
◯◯市に住民票がある人は、市民としての価値がある。
もっと身近なところで言えば、「家族」でしょうか。
誰とも何の関係を持たずに生きることは不可能です。
ホームレスだって、誰かとの関係の中にいるはずです。
その存在には、誰かにとって価値があるはずです。
ちなみに、私にとっても、この相談を投稿してくれた人が、かけがいのない存在(と言えば大げさですが)になりました。
行為の価値も含みますが、こういう風に悩んでいることを共有できて、アドラー心理学の学び、さらに自分だけではないという精神的な安心も得られました。
人は、必ず誰かに貢献している、ということです。
岸見先生は、本人がもつ価値について触れる以外にも、人間本来の「優越性の追求」に対しても言及しています。
今の仕事を続けようと思い、このままではいけないと思うのであれば、動くしかないのです。このままではいけないと思っているのに動けないとすれば、このままではいけないとは本当には思っていないということです。
まず、何が問題だったのか、どうすればよかったのかということをしっかりと知ることです。つまり、仕事を改善するための行動を起こせていないことを、自分の性格や過去の実績に責任転嫁しているのです。
もし、本当に仕事を改善することを目標にするのであれば、その問題点を一つ一つゆっくりでも良いから、前の自分よりも一歩前に進む必要があります。
正確に言うと、勇気を持てていれば、一歩前に進みたくなるはずです。
自分の悪いところと向き合えず、それを隠そうとして小さい嘘をつくというのは性格ではありません。性格ではなく、仕事で思うような結果を出せない時にしてしまう行動パターンでしかありません。それなのに性格だと思ってしまうのは、変えられない、少なくとも変えることは難しいと思いたいからです。相談者の目的に着目しています。
難しいと思うことで、行動パターンを変えることから前に進めなくなっています。
本人の気力でも、素質でも、技術が足りないわけでもない。
ただ、勇気が足りないだけです。
勇気が足りなくて、前に進めていません。
達成可能な目標を立て、それを達成できれば次のやや高い目標を立てましょう。必要なのは「気力」ではなく「努力」です。簡単ではなくても達成可能な目標であれば、目標を達成するためには努力は必要ですが、気力は必要ではありません。これは、勇気を持つための具体的な方法論かなと思いました。
まずは、今の自分を受容して、確実にできることを実践していく。
そうすれば、勇気を取り戻しつつ、最終的な目標にも少しずつ近づいていける。
自分もできてないなと、自分にも言い聞かせるつもりで、岸見先生の回答に補足説明をしてみました。
私も今まさに、仕事のミスや未熟さが露呈し、勇気を持てていなかったので、今回の相談者さんには感謝です。
自分が価値のあるものだと思って取り組んでいることと、組織から求められていること、メンバーから期待されていること、相手によって自分への評価は違うんだと思います。
課題の分離ですね。相手の評価は関係ない。自分が価値のあるものだと思ったものを取り組めば良い。
ここで大切なのは、自分が価値あると思って取り組んでいるもので、「価値がある」という気持ちの「目的」ではないかと思います。
例えば、今私がこうやってブログを書いている時間が、人生の嘘かどうか、ということです。
私は、この記事を書くのことで、癒しが得られ、さらに今後の人生を豊かにする一助になると思っています。
しかし、私が本来取り組むべき、と思われること、は組織やメンバーから期待されていることなのかもしれません。
仕事に使う資料を整理するとか、ブラッシュアップするとか、成果を上げるためのプロトコルを作成するとか、仕事に専念しようと思えば、いくらでも取り組むべきことが出てきます。
先ほどの回答でも「目標」と書かれていましたが、本当にその「取り組むべきこと」が自分の「目標」とすべきものなのか、ということです。
自分の人生は、誰も代わってくれません。
自分で決めていいんです。
私は、今日も意味がないと評価されるであろうことに取り組んでいます。
それはもしかしたら、私の人生の嘘なのかもしれません。
それは自己点検が絶対に必要です。
ですが、その人生の嘘も、死ぬ前日に気がつけば良いので、今は自分を信じて自分なりに目の前のことと向き合っていこうと思います。
あくまで、主導権は自分です。
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