他者貢献を突き詰めてみると、結局誰かに貢献しているかどうかなんてわからない、という結論にしたくなる。「嫌われる勇気」の中でも引用されていた事例ですが、職場の掃除をしても誰も気付いてくれなければやる意味がないと判断する。確かに、今の私ならそう考えている。だから、費用対効果を考えて労力から得られる結果ばかりを考えて、じゃあ結局その場に合わせてフラフラ過ごしていた方がいいんじゃないの?と思っている。
ここからが本題かと。じゃあどういう思いで「他者貢献」を考えればいいのか。それはやはり「自己受容」「他者貢献」「他者信頼」の3つをバランスよく保てているかが重要になってくる。3つのどれが欠けてもダメ。
先ほどの掃除事例で欠けていたのはまず「他者貢献」。掃除をしたことで得られるメリットを「他者からの見返り」という視点で捉えてしまっているため、毎日掃除をすることで得られる見た目の綺麗さ、(綺麗に保たれているということが良いかどうかは汚くなってから気付くことですが)綺麗さで得られる爽快感、邪魔なものが足元にないことによって安全性も高まります。こんな私でも3つくらいメリットをあげられたので、他の方が考えればもっと出てきそうでそうです。
次に欠けていたのは自己受容...
ここからが本題かと。じゃあどういう思いで「他者貢献」を考えればいいのか。それはやはり「自己受容」「他者貢献」「他者信頼」の3つをバランスよく保てているかが重要になってくる。3つのどれが欠けてもダメ。
先ほどの掃除事例で欠けていたのはまず「他者貢献」。掃除をしたことで得られるメリットを「他者からの見返り」という視点で捉えてしまっているため、毎日掃除をすることで得られる見た目の綺麗さ、(綺麗に保たれているということが良いかどうかは汚くなってから気付くことですが)綺麗さで得られる爽快感、邪魔なものが足元にないことによって安全性も高まります。こんな私でも3つくらいメリットをあげられたので、他の方が考えればもっと出てきそうでそうです。
次に欠けていたのは自己受容...
0 件のコメント:
コメントを投稿