ここ1年くらいで、たくさんの変化があった。
良い変化と悪い変化と両方とも、たくさんあった。
これまで生きてきて、当たり前だと思っていたことが、有り難いことだったんだと気がつくようになった気がする。
辛いことはこれから起こる楽しいことへのフリだ、と又吉さんが言ってた。
辛いことは、楽しいことを楽しいと思わせるためにあるんだと思った。
試練があるから、それに比べたら今は楽だとか思えるんだろう。
だからといって、積極的に辛いことを経験しにいく必要はないと思う。
基本的には、やりたいことをやるのが人間の本能だと思うし、自分にはあえて辛いことを選択している時間はもったいないと思う。
やりたいことをやるときに、辛いことはないと思って挑戦するべきじゃないね。
じゃあ、何が自分の行動の動機づけになるんだろうか?
どんなことにも確証はあり得ない。確証がないから、期待していなかったから、不意に嬉しいことがあったときに嬉しいと思えるんだ。
その起こるかどうか分からない偶然を期待すれば良いのだろうか?
原動力は、今ここにある幸せを実感することかもしれない。
どんなに辛いことがあるときでも、今ここにあるプリミティブな幸せがある。
又吉さんの、フリ説を私なりに考えてみると、辛い出来事は今ある幸せに気がつくためのきっかけだ、となりますね。
その幸せに気がつけたことが、次の行動への原動力になるのかも。
岸見一郎さんの幸せになる勇気、というのはそういう意味なのかもしれない。
つまり、自分にある幸せに気がつくということは、次の行動をしてしまう自分に気がつく、もっと言えば、次の行動をしてまた傷つく出来事にあってしまうことに気がつくということだ。
幸せになることは、辛いことと表裏一体なんだろうか。
今の幸せに気づき、その幸せを知る。
辛いことがあれば、またコインを表に戻せば良い。
疲れたら、ときどきコインをしまえば良い。
今朝は、そんな風に考えていました。